「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【再掲・無料公開】17年前の夏を振り返る~「強制集団死」を生き延びた金城重明さんのこと

 成田悠輔氏(イェール大学アシスタント・プロフェッサー)の「高齢者は集団自決すれば良い」という発言が批判を浴びている。

 どこまで本気なのかはわからない。少子高齢化社会における福祉の限界を示唆した物言いでもあるのだろう。たが、たとえメタファーであったとしても、軽々しく用いられてよい言葉では決してないはずだ。高齢者を不用な存在だと思わせるばかりか、「集団自決」の内実を誤った方向に導く。

 「集団自決」発言から浮かび上がるのは、特定の属性を持った人々を切り捨てる差別と排除の思想そのものだ。実費負担できない透析患者を「殺せ」と書いた長谷川豊氏(元フジテレビアナウンサー)や、性的少数者を「生産性がない」と表現した杉田水脈氏(自民党衆議院議員)と何ら変わらない。

 そもそも成田氏は戦時中の沖縄における「集団自決」を理解した上で発言しているのだろうか。

 「集団自決」はそれそれが自発的に死を望んで「発生」したものではない。死は、強いられたものだった。

 だからこそ沖縄ではこれを「強制集団死」と表現する人も少なくない(地元の一部メディアもこの文言を用いている)。

 私は昨年2022年7月、沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)に関する記事を書いた。

 この機会に再掲する。

 繰り返す。「集団自決」は強いられたものだった。そして、生き残った者にも苦痛を与え続けた。

 これまでずっと。そしていまも。


集団自決の慰霊碑(渡嘉敷島)

 金城重明さんが亡くなった。93歳だった。

 沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)を生き延び、戦後はキリスト者としての道を歩んだ。


金城重明さんの死去を報じる地元紙

 私が金城さんを取材したのは2005年の7月。そのときの記憶は心の奥底に焼きゴテを押し付けられたような痛みをともなって、いまでもはっきりと残っている。


フリージャーナリストの看板を掲げたばかりの頃の筆者。取材先で同業者が
撮ったもの

 その頃、私は長きにわたり記者として働いてきたスキャンダル系週刊誌の編集部を辞め、フリーランスとしてあらゆる媒体に記事を書き飛ばしていた。というより、食っていくために必死だった。私はそれまで特ダネを連発した経験もなければ、記者としての力量を評価されたことも、たぶんなかった。数人の契約記者をかき集めて労組を結成し、退職金を勝ち取ったことだけが唯一の実績という、版元からすればすこぶる危なっかしい使い勝手の悪いライターでもあった。

 需要は自分でつくるしかない。仕事を得るために、言葉を無理やり強奪する取材を繰り返していた。工事現場の見回りを装うため作業服を着て自転車にまたがり、取材対象者の自宅前で張り込み、ドアが開いた瞬間に突進するという質の悪い刑事のまねごとばかりしていた。しかも多くの場合、何の収穫もなく「〇〇は取材に応じることなく無言を通した」みたいな、どうしようもない記事しか書くことができなかった。

 正直、疲れていた。飽き飽きしていた。倦怠と絶望に襲われながら、撤退の道も模索していた。いったい、自分は何をしてるんだろう。社会に問題提起するとか、権力や大資本を追い詰めるとか、それなりの青臭い目的があって週刊誌記者となったのに、しかも「自由」を求めてフリーランスとなったのに、主体性を失い「不自由」の度合いは増すばかりだった。

 力量のなさを棚上げし、こんな仕事は向いてないんじゃないかと思った。作業服を着たまま、取材経費で落とした新品のママチャリを漕いで、誰も知らない遠くへ行ってしまおうかと真剣に考えた。まだそのくらいの若さは持ち合わせていたはずだった。

 そんな時に沖縄取材が決まった。

 きっかけは同年6月、「新しい教科書」の採択運動を進めていた自由主義史観研究会が東京都内で「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」と銘打った「緊急集会」を開催したことによる。

 集会では当時同会代表を務めていた藤岡信勝氏が「集団自決の真相」を求めて実施した沖縄現地調査の結果を報告。「旧日本軍が沖縄住民に集団自決を強要したというのは虚構であることが判明した」とぶち上げた。そのうえで「集団自決を軍が強要の記述を教科書から削除するよう運動を始める」と宣言したのである。

 その際に満場一致で採択された「決議」には、次のような文言が記されている。

 社会科や歴史の教科書・教材には、過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて、歴史を学ぶ児童・生徒に自国の先人に対する失望感・絶望感をもたせる傾向がしばしば見受けられます

 事例の一つに「大東亜戦争時の沖縄戦で民間人が軍の命令で集団自決させられた」というものがあります。しかし、これは事実でないことが、関係者の証言や研究によって既に明らかになっています

 私たちは、敗戦六十年の今年、この「沖縄集団自決事件」の真相を改めて明らかにし、広く社会に訴える

 それまで南京虐殺、日本軍慰安婦の問題で、いまでいうところの「歴史戦」(いやな言葉だ)を展開してきた同会が、次のターゲットとして沖縄に狙いを定めた瞬間だった。

 個人的に右派勢力の動向をチェックしていた私は、集会を報じた保守系雑誌でそのことを知り、危機感を持った。歴史改ざんと、沖縄戦の犠牲者を侮蔑するような動きが、たまらなく嫌だった。いや、腹が立って仕方なかった。

 このことを記事にしようと考えた。どうせ記事にするのであれば、藤岡氏などに直当たりするだけでなく、沖縄に足を運んで「集団自決」の実相も調べたかった。

 もうひとつ本音を打ち明ければ、少しの間、東京を離れたかった。きれいな海を見れば、どす黒く濁った自分の心も浄化できるんじゃないかと、今にして思えばかなり身勝手な動機が私の背中を押した。

 那覇に降り立って、最初に足を運んだのは対馬丸記念館である。同館はその名の通り、戦時中、米軍によって撃沈させられた疎開船「対馬丸」の悲劇を伝えることを目的につくられた施設だ。

 実は、藤岡氏ら「沖縄調査団」が同館を訪ねたことは事前取材で判明していた。彼らは何が目的で、どんな様子で館内を見学したのか。

 取材に応じてくれた学芸員は、調査団の来館をはっきり覚えていた。

 「皆さん険しい表情で、どことなく威圧感のようなものを受けましたね。ぱっと見て、妙なグループだなあとは思いました」

 学芸員の話によると、「ちょっとした緊張を覚える場面」があったという。

 調査団の一行は入館するとすぐに、入り口近くの展示物の前で足を止めた。そこには対馬丸が撃沈された当時の状況が、パネルによって説明されていた。

 「ちょっといいですか?」

 メンバーのひとりが、この学芸員へ声をかけた。

 来館者が学芸員に説明を求めるのは珍しいことではない。しかしその後に発せられた質問は、学芸員の頭のなかに叩き込まれた想定問答には用意されていないものだった。

「この記念館は特定の思想に影響されているの?」

 予期せぬ問いかけに戸惑いながら、学芸員は「そのようなことはありません」と短く答えるしかなかった。なにしろこの学芸員にとって、「思想」を問われた経験など、これまでなかったのである。

 学芸員はあらためてグループ全員の顔を見回した。リーダー格の男の顔をどこかで見たような記憶がある。さて、誰だったか……と記憶の糸を手繰り寄せているとき、唐突に彼らは素性を明かした。

「我々は自由主義史観研究会のメンバーです」

 学芸員はそこでようやく、「新しい教科書をつくる会」(以下、つくる会)の副会長(当時)でもある藤岡氏の存在に気が付いたのであった。

 一行は”思想チェック”を終えた後も、検閲官よろしく展示物へ難癖つけることを忘れなかった。

 「アジア太平洋戦争」という呼称はおかしいのではないか。なぜ、ここの展示物は旧日本軍の責任を問うているのか。その根拠を示せ──。

 「うんざりしました。対馬丸に乗船していた700名以上の子供が亡くなった事実に心を痛めているようにも見えませんでしたし、あの一行はクレームだけを告げると、さっさと引き上げてしまったのです」(学芸員)

 滞在時間はわずか15分程度だったという。

 私が調べたところ、調査団はその日朝9時の全日空機で羽田を発ち、正午近くに那覇空港到着。空港から真っ先に向かったのは陸上自衛隊那覇駐屯地だった。そこで沖縄戦の概要説明などを受けた後、対馬丸記念館へ足を運び冷やかし程度の見学を済ませ、午後4時発のフェリーで慶良間諸島の座間味島へ向かった。翌日は座間味島で戦跡調査した後、夕方にはチャーター船で渡嘉敷島へ。翌日には渡嘉敷島から那覇へ戻り、夜の飛行機で帰京した。2泊3日の沖縄ツアーである。

 沖縄滞在中には座間味と渡嘉敷で3人の住民に聞き取り調査し、その結果、「自決の際、軍からの命令はなかった」との証言を得たことで「集団自決の真相に辿り着いた」としたのである。

 一応、言及しておくが、戦争体験は人によって異なるものだ。3名の証言だけで「画期的な成果」(同研究会機関紙より)と誇らしげに語るのは、あまりに短絡的ではないか。ちなみに「集団自決」の悲劇は座間味と渡嘉敷だけで起きたものではない。伊江島、読谷村、本島南部でも事例がある。それらについて、藤岡氏らがスルーしていることも不可解だったが、3日間程度の調査で「画期的」と言うのであれば、数十年間にわたって聞き取り調査を続けてきた沖縄の歴史家や地元記者の業績はどう位置づければよいのか。その頃、沖縄では住民虐殺や「集団自決」の体験者、目撃者はまだ相当数の人が生きていた。しかし、そうした人々から丹念に聞き取りするわけでもなく、3人の証言だけで歴史の真実に突き当たったというのだ。それで教科書を塗り替えることができるほど、自由主義史観研究会は沖縄に精通しているのか。調査を積み重ねてきたのか。結局、同会は目的に合致しない話は最初から排除して、歴史をつくり直そうととしていただけではないのか。そう考えるしかなかった。


渡嘉敷島の港

 ちなみに同会が聞き取りした3人のうち、「集団自決に軍命はなかった」と証言した渡嘉敷島在住のKさんに私は会うことができた。

 Kさんの家は渡嘉敷島の港の近くにあった。来意を告げると、「戦争の話ならお断りです」と突き放したような声が返ってきた。Kさんは私に背を向けたまま、居間の隅に座っていた。細い背中が震えているように見えた。

──最近、東京から自由主義史観研究会の調査団が、こちらに見えたと思うのですが。

 「知りません。うちにはいろんな人が来ますから」

──Kさんが「集団自決」について話しているビデオが、彼らの集会で上映されました。

 「そのことも知りません。興味ないです」

──ビデオのなかでKさんは、集団自決に軍命はなかったと話しています。

 「私はそう思っているだけです。まだ15歳でしたから、大人の世界のことはわかりません。戦争体験は人によって違う。私が知っているのは自分のことだけです。これ以上、話すことはありません。帰ってください」

──Kさんの証言が、自由主義史観研究会の成果として喧伝されているのは事実です。そのことについては、どう思いますか?

 「……。とにかく帰ってください。話したくありません」

 拒絶というよりは懇願に近かった。上ずったKさんの声には、闖入者への憤りと、明らかな戸惑いが感じられた。

 おそらくKさんは確信犯として自由主義史観研究会に協力したわけではないのだろうと思った。そうでなければ、なぜに「戦争体験は人によって違う」「まだ15歳だった」などと、わざわざ釈明じみたことを口にするのか。

 後日、私は東京に戻ってからKさんに電話した。突然の訪問を詫び、あらためて話を聞きたいという私に対し、Kさんは次のように答えた。

 「確かに私は、集団自決において、軍が直接に命令を下したとは考えていません。私の記憶ではそうなのです。しかし、それをもって日本軍を肯定するつもりはありません。軍人の一部が島で何をしたのか、わたしは知っています」

 日本軍は渡嘉敷島で、スパイだと疑いを向けた島民を処刑している。その事実は、沖縄戦を知る島民の記憶から消えることはない。

 いずれにせよ、Kさんには教科書を書き換えるといった使命感などなかったと思う。ましてや「皇軍の名誉を回復する」といった自由主義史観研究会の目的など、Kさんには関係のないことだったはずだ。

 いわば証言を「つまみ食い」されただけ、というのが真相だろう。

 電話口でKさんは、うめくような声を漏らした。

 「もう、戦争の話は終わりにしたいんです」

 この人が本当に歴史を変える「証人」なのだろうか。私は同会の「成果」を疑わざるを得なかった。

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