「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【再掲・無料公開】17年前の夏を振り返る~「強制集団死」を生き延びた金城重明さんのこと


自決現場に続く道の入り口に掲げられた看板

 このときの沖縄取材では多くの人から話を聞いた。藤岡氏や文部科学省などにも取材し、後に月刊誌『世界』(岩波書店)や、すでに廃刊となった社会運動系のミニコミ誌に記事を書いた。いま振り返れば、いくつか興味深い言葉を拾い上げることができたのだが、それについては別の機会に触れたいと思う。

 ここからが本題だ。

 話を聞いた多くの関係者のなかに、金城重明さんがいた。

 金城さんを紹介してくれたのは由井晶子さんだった。

 由井さんは長きにわたって地元紙「沖縄タイムス」で記者を務め、日本の新聞界では初の女性編集局長、論説委員などを歴任した。2020年に86歳で亡くなっている。

 05年当時の由井さんは新聞社を引退し、フリーのジャーナリストとして沖縄・東京間を行ったり来たりの生活をしていた。

 私は何かの機会に東京で由井さんと知り合い、何度か沖縄の基地問題に関してレクチャーを受けていた。

 取材時、すでに70歳を超えていた由井さんは、「沖縄を案内してほしい」と図々しく願い出る私を快く受け入れてくれた。私が運転するレンタカーの助手席で道案内を務めてくれただけでなく、「この人に会っておきなさい」「そのことならこの人に聞きなさい」と的確なアドバイスも忘れなかった。

 沖縄の地理にも歴史にも疎い私なのに、由井さんはとことん親切だった。あまりに親切すぎて、子どもの手を引く親のように私から離れないので、ビーチでのんびりしたいというもうひとつの目的を達成させることはできなかった。そんなことしている場合じゃないでしょうと、叱られそうな気がして、ひとりになりたいとは言い出せなかったのだ。鞄の奥に忍ばせた水着を取り出す機会には恵まれなかった。

 そんな取材の過程で、そのころ金城さんが牧師を務めていた教会を由井さんが案内してくれた。

 金城さんが「集団自決」から生き延びたこと、そして凄惨で過酷な体験を有していることは知っていた。だが、記者として、私は肉声で語られる沖縄戦に耳を傾けたかった。

 教会の礼拝堂で、私は金城さんと向き合った。

 あなたの体験を聞きたい──そう申し出た私に対し、金城さんは目を閉じ、呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開いた。

 「60年前、私はまだ16歳でした」

 穏やかな表情だった。口調は優しかった。しかしその話の中身は、ネタ欲しさでペンを走らせる私の脳髄を、ぎりぎり締め上げた。金城さんの紡ぐ言葉の一つひとつが、太陽光の届かない暗闇のジャングルへ、私を引きずり込んだ。

 渡嘉敷島に米軍が上陸したのは1945年3月27日である。金城さんら渡嘉敷村阿波連の住民は、日本軍から集落を離れるよう命じられた。

 近隣の人たち、家族とともにたどり着いたのは島の山間部、北山と呼ばれる地域の深い谷間だった。そこに数百人の人々が集まった。

 翌28日、どんより曇った日だったことを金城さんは覚えていた。村長の指揮のもと、住民は一ヶ所に集められた。軍から何かの命令があったらしい、という話が伝わった。

 母親が涙を流しながら「これから一緒に死ぬんだよ」と呟いた。それが「自決」を意味することは子どもでも理解できた。

 そのとき、どんな気持ちでしたか。

 私の問いに金城さんは淡々と答えた。

 「昂揚した気分でした。死への恐怖ではなく、いよいよ友軍と一緒に死ぬことができるのだという、ある種の連帯感が身体中に充満していたんです」

 それが戦時を生きる少年の偽らざる心境だったのだろう。

 そして、いよいよそのときがやってきた。

 日本軍の管理下に置かれた村の防衛隊員によって家族ごとに手りゅう弾が配られた。

 「天皇陛下万歳!」

 深い谷間の各所から絶叫に近い声があがる。続けて爆発音……

 だが、手りゅう弾が破裂する音は散発的だった。実は、手りゅう弾の多くが「不発弾」だった。管理が悪かったのか、劣化が進んでいたのか、撃針を地面に叩きつけても爆発に至るものは少なかった。

 金城さんの家族に配布された手りゅう弾も、そんな不良品の一つだった。

 「なぜ死ぬことができないんだ。本当に悔しく思ったんです。そして、死ぬことができないという現実が、むしろ怖かったんです」

 北山に迫りつつある米軍への恐怖。「友軍」への忠誠。それらが金城さんを混乱に導いた。どうしていいかわからず、おろおろするしかなかった。

 そのとき、目の前で集落の区長を務める男性が、木の枝をへし折って、自分の妻子をメッタ打ちにしている光景が飛び込んできた。

 それが引き金となった。手りゅう弾で死ぬことのできなかった人々が、家族を木の棒や石で殴りつけた。あるいは鎌などの刃物で首筋を切り裂いた。

 気がつけば、金城さんは両手に石を握り締めていた。そこから先は、あまり覚えていない。はっきりしているのは──兄と一緒に、母と弟、妹の頭に、手にした石を何度も打ち落としたことだけだった。

 静かな礼拝堂で、金城さんは消え入るような声を出した。

 「私は、自分の家族に手をかけたんですよ」

 今度は私がおろおろした。どう反応してよいのかわからなかった。会話の接ぎ穂を失う。教会の静けさが辛かった。言葉の出ない自分がもどかしかった。悲しかった。事前に読んだ書籍や新聞記事で、ことの次第は概ね理解していたはずのに、生身の言葉は想像以上に重たかった。

 目の前にいる穏やかそうなキリスト者が、家族に手をかけたという事実が信じられなかった。

 「いま思えば……

 金城さんが無言のままの私に話しかける。

 「あれは虐殺でした」

 山奥の深い谷間は、殺し、殺されるための場所だった。手りゅう弾の破片が身体を貫通する。かみそりが、鎌が、首元をえぐる。木の枝が、石が、頭上に振り落とされる。泣き叫ぶ声が谷間を揺るがし、川は鮮血で赤く染まった。

 「殺意があったわけではありません。そうしなければならなかった。いや、そうすべきだと思ったのです……

 この日、北山では315人が命を断った。

 60年前の情景を語るとき、金城さんの表情はわずかに歪んでいた。感情を押し殺し、あえて淡々とした口ぶりを通してはいるが、口元のわずかな震えを隠すことができない。それでも記憶を懸命に掘り起こすのは、責任なのか義務なのか。生き延びた者の使命なのか役割なのか。

 そして──私は何なんだ。

 戦争は命を奪う行為だ。戦場は、命を奪い、奪われる場所だ。その話を聞きに来ているというのに、私は耐えられないほどに動揺していた。一刻も早く、教会の外に出たいと願っていた。

 覚悟のなさが、自分の弱さが、ただただ情けなかった。なんだかんだと理由を挙げながら、結局は逃避旅行の気分を抱えていた自分を恨んだ。

 家族に手をかけた後、金城さんは兄とともに米軍陣地に突入して死ぬことを決意したという。

 おそらく、その時点ですでに自身を殺している。生きるために戦うのではなく、ただひたすら死地へ向かうために、16歳の少年は谷間を這い上がった。

 しかし、時に運命は人間の悲壮な決意など、いとも簡単に裏切ってしまう。死に急ぐ少年は、気がつけば米軍の捕虜となっていた。

 死ぬことのできなかった金城さんは、それから苦渋に満ち満ちた長い「戦後」を生きることになる。


北山の自決現場

 敗戦からしばらくして、金城さんは聖書と出会い、キリスト者としての道を進むことになった。生き残りの後悔を支えてくれたのは聖書だけだった。

 私と向き合っている間、金城さんの視線は、はるか先に焦点を当てていたようにも見えた。自らの苦悩と体験を語るとき、向き合っていたのは、16歳の自分自身の姿ではなかったか。あるいは母親や兄弟かもしれない。記憶を風化させないことを自身に課し、人に伝えることで退路を断つ。おそらくそれがキリスト者としての覚悟だった。

 だからこそ、臓腑をえぐり取られるような痛みに耐えてでも「集団自決」を語り継ぐ。金城さんは戦後も阿鼻叫喚の谷間を歩き続けたに違いない。

 日本軍の戦争責任を問う私に、金城さんはこう答えた。

 「軍官民共生共死。それが皇軍の思想でした。だからこそ、死を強いられたのではないでしょうか。手りゅう弾は軍によって配られたのですから、少なくとも誰が死へ誘導したのかは明らかだと思うのです」

 金城さんに会った翌日、私は由井さんと一緒に渡嘉敷島へ渡った。

 港でレンタカーを手配し、「集団自決」のあった北山を目指した。

 慰霊碑はすぐに見つかった。その少し先、けもの道を下った谷間が「現場」だった。小川の清流に沿った茂みの中に平坦な場所がある。ここで、多くの人が亡くなった。

 川の流れにそっと触れてみる。南国には似つかわしくないひんやりした感触が指先に伝わった。水は透き通るように美しかった。

 「虐殺でした」という金城さんの言葉を思い出した。

 川面が赤く濁ったような気がした。

 ここで殺したんだ。そして殺されたんだ。死を強いられたんだ。それだけが「集団自決」の真実ではないのか。強制集団死、それ以外に何があるんだ。

 こんな悲劇は繰り返しちゃだめなんだ。繰り返されてたまるか。それがどんなに手垢にまみれた言葉であろうと、訴え続けたいと思った。

 金城さんが亡くなった。引き合わせてくれた由井さんもいない。私も歳を重ねた。

 だが──17年前の小さな決意はまだ生きている。

 

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