「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

愛国から憂国へ、そしてナショナリズムを疑った鈴木邦男さん

 晩年は「愛国者」なる存在に疑念を持っていた。ナショナリズムにも懐疑的だった。そのために右翼陣営から攻撃を受けることも少なくなかった。

 鈴木邦男さん──「国」のあり方を独自の視点で問い続けた「活動家」が亡くなった。79歳だった。

 3年くらい前だったか、車椅子姿の鈴木さんを目にしたのが最後だった。

 鈴木さんと始めて会ったのは90年代の半ばだった記憶している。私が何かのコメントを鈴木さんに求めたことをきっかけに、多くの場所で顔を合わせるようになった。


週刊誌記者時代の筆者

 90年代の私はスキャンダル雑誌「週刊宝石」(光文社)の記者としてネタ探しに追われつつも、様々な「活動現場」に顔を出していた。

 反戦、反原発はもとより、盗聴法反対、住基台帳法改正反対、国旗国歌法反対、雇用の規制緩和反対、石原都政打倒、国鉄被解雇者復職闘争などに参加しながら、それらを無理やり記事化することを自身に「ノルマ」として課していた。

 そして、これら「活動現場」のほとんどに、鈴木さんも顔を出していた。多くの場合、作家の宮崎学さん(故人・『突破者』著者)に連れられての参加だったようだが。

 鈴木さんは民族派団体「一水会」の活動にも関わりながら、しかし、その頃からすでに”右翼臭”はほとんどなかった。

 私は特に親しい関係にあったわけではないが(そもそも昔から新旧問わず右翼が嫌いだった)、少なくとも「活動」の範囲が共通することから、「同志」としての親近感はあった。

 その後も私が出した何冊かの本の書評を、週刊誌などに書いてくれた。ありがたい存在だった。

 鈴木さんに長時間の取材をしたのは2018年、『「右翼」の戦後史』(講談社)の刊行前である。

 生い立ち、学生時代の活動、「一水会」創設の経緯、そして「脱右翼」への道のりなど、話は多岐に及んだ。

 それらは同書に詳しいが、今回、ここにその一部を改稿したうえで以下に再録する。

 (以下は敬称略)

              
生前の鈴木邦男

 民族派団体「一水会」の創設者である鈴木邦男が早稲田大学に入学したのは1963年だった。

 鈴木は子どもの時分から「生長の家」の信者だった。大病をきっかけに母親が入信し、「幼いころは子ども会のような感覚で参加していた」という。

 「生長の家」は谷口雅春が1930年に設立した神道系宗教団体である。現在は政治活動とは距離を置いているが、90年代までは憲法改正、再軍備などを主張する極右タカ派団体として認知されていた。現在の日本会議の母体ともなった組織のひとつでもある。創始者の谷口はもともと大本教信者であったが、大本教に対する政府の弾圧をきっかけに離れ、「生長の家」を開祖者となった。

 戦前の「生長の家」が他の新興宗教団体と違ったのは、その徹底した天皇信仰で「聖戦遂行」に一貫して協力したことにある。勤労奉仕や軍備の奉納を率先しておこない、戦争協力を惜しまなかった。

 仙台から上京して早稲田に入学した鈴木は、当時、乃木坂にあった「生長の家」の学生道場(信者のための学生寮)に入った。「お祈り漬け」の毎日だったという。朝は5時半に起床、お祈りの後は国旗掲揚、国歌斉唱、さらには谷口の著書をもとに学習会がおこなわれ、大学の講義が始まる前にはすでにヘトヘトに疲れ切ってしまうようなスケジュールだった。

鈴木はさまざまな反差別運動の現場にも足を運んでいた

 鈴木が入学して3年目の66年。その後の全国的な学園紛争の前哨戦ともいうべき「早稲田闘争」がはじまる。学費値上げに反対する抗議行動に端を発し、全学部がストライキを起こした。各校舎の前には机やいすでバリケードがつくられた。闘争を主導したのは新左翼学生からなる「全学学館学費共闘会議」で、代表を務めていたのは、現在、労働問題などを扱う弁護士として知られる大口昭彦だった。大学側は機動隊導入を繰り返し、多くの学生が逮捕されるも、抵抗は止まなかった。

 鈴木は学費値上げ自体には反対だったが、闘争の主体は共産主義者であり、共産革命がその目的だと信じていた。「生長の家」で学ぶ反共学生としては当然の考えである。

 そうしたなかで紛争終結を望む学園正常化運動が湧きおこる。主体となったのは「雄弁会」「国策研究会」「土曜会」といった保守系サークルで、「生長の家」の学内サークルに属していた鈴木もこの動きに加わった。彼らは「早稲田大学学生有志会議」を結成、学園正常化を求める署名活動やビラ配布などの活動を行った。

 もちろん左翼学生との対決は避けられなかった。

 鈴木は次のように「解説」した。

 「当時は左翼が圧倒的な力を持っていました。反体制を訴える左翼学生は、学内では支配者に近かった。だから僕の中では左翼への対抗は、早稲田の伝統的な在野精神に基づくもので。反体制の闘いだと位置づけていたんです」

 左翼学生とは「連日のように殴り合った」という。数の上では劣勢だったので、袋叩きにされることも珍しくなかった。だが、闘いはすべて素手だった。殴れば自分の拳も痛む。相手も同じだ。

 「だから、いまでは当時の敵とも普通に会って話します。同じ戦場で戦った戦友のような間柄です」

 66年3月、有志会議メンバーを母体とした「早稲田大学学生連盟」(早学連)なる組織が結成された。中立的な名称だが、内実は右派学生による組織だ。

 その初代議長に選ばれたのが鈴木である。

 早学連は左翼に対抗するように立て看板を学内各所に設置し、教室をまわってはスト反対、学園正常化を訴えた。相変わらず左翼学生との殴り合いは続いたが、それでも就職に不安を覚える一般学生からは一定程度のシンパシーを集めることには成功した。

 なお、このとき早学連に参加した一人が、当時1年生だった森田必勝(後に「盾の会」に参加。70年の三島事件で割腹自殺)である。

 羽織袴に高下駄で入学式に出席した森田は、もともと民族主義的傾向が強かった。当然、学内を支配していた左翼学生には反発しかない。

 同年5月、早学連メンバーに接した森田は、日記『わが思想と行動』(日新報道)に次のように書き残している。

 「きのうクラス委員総会で、早稲田精神丸出しの勇敢な先輩と知り合った。総会で、革マルの一方的な議事進行と、独善的な議事内容に怒って革マルのヤツらに単身、食って掛かっていた。

 ぼくは入学したばかりなので紛争の経過がよくわからないと言ったら『ジュリアン』に連れて行ってくれた。いろいろと話を聞かされた。左翼に対抗して学園正常化のために奮闘しているグループがあることを初めて知る。それこそワセダ精神だ!」

 ここに出てくる「ジュリアン」とは大学近くの喫茶店で、後に右翼学生の全国組織「日学同」の結成メンバーとなる矢野潤が経営していた。早稲田周辺にはそのころ多数の喫茶店があったが、右翼学生のたまり場として機能していたのは「ジュリアン」だけだった。

 森田のような熱血青年も加わり、早学連はさらに勢力を拡大させた。だが、長期に及ぶストが収束すると、一般学生はふたたび日常に戻っていった。普通の学生はあくまでも平穏なキャンパスを望み(あるいは就職を心配し)、運動に参加しただけだった。そもそもが右翼でも何でもない。早学連からの離脱は当然の帰結だった。

 実力の点では、まだ左翼に分がある。大学を共産革命の拠点にしてはならないという強い思いがあった。そこで早学連メンバーは他大学(日本、国士館、明治、法政など)に呼び掛けて、横断的・全国的な学生組織結成に動いた。

 同年11月に結成されたのが「日本学生同盟」(日学同)である。

 早学連議長だった鈴木は日学同の結成までは関わったが、その頃は生長の家学生部の役員も務めていたこともあり、結成後に参加することはなかった。

 ちなみに日学同はその後、内部対立(自民党支持などをめぐって論争が起きる)、反主流派の除名など、新左翼党派同様のトラブルが絶えることなく、急速に力を落としていく。   

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