「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

歴史否定と改竄の現場を歩く 第1回 奈良・柳本飛行場、長野・松代大本営地下壕

 全国各地で歴史の書き換えが進行している。侵略戦争の罪過を刻み、アジアとの友好を誓うための記念碑などが、排外主義グループの行動により撤去されているのだ。

 いま、そうした各地の「歴史否定の現場」を私は訪ねている。

 その一部を前後編の2回に分けてお伝えしたい。

■柳本飛行場(奈良県天理市)

 5月の青い風が吹く。

 春の草木が揺れる畦道を歩いた。

 奈良県天理市──JR柳本駅と長柄駅にかけて、青畳を敷き詰めたような田畑が広がる。

 かつて、そこに飛行場があった。

 大和海軍航空隊大和基地──通称、柳本飛行場。太平洋戦争末期、本土決戦に備えてつくられた海軍の航空基地である。

 飛行場の広さは約300ヘクタール。1500メートル級の滑走路が南北に伸びていた。1943年から工事が始まり、452月に航空隊が開設されたが、滑走路をコンクリートで整備する余裕もなく、終戦となった。

 それでも戦時中は50機のゼロ戦をはじめ、約100機の軍用機が配備されていた。

 記録によると、滑走路の完成を待つことなく、竹を菱形に編んだ簀子(すのこ)を敷き詰め、そこにゼロ戦を着陸させるなどの特攻訓練が行われていたという。

 いま、同地を歩いても、この場所に飛行場があったことを感じるのは難しい。

 穏やかな里山の風景のなかに、戦争をイメージさせものはほとんどない。

柳本飛行場のあった場所は現在、田畑が広がっている

 わずかに残った壕の跡や水路などから、飛行場のイメージを膨らませるのがせいいっぱいだ。

 戦後、飛行場は米軍が接収し、その後、元の農地に戻された。

 ちなみに柳本飛行場の建設には。多くの労働者が動員された。主力となったのは朝鮮人労働者である。その数、約3千人と記録される。

 柳本駅の周辺には朝鮮人労働者のための飯場がつくられ、いまなお、それらしき建物も一部残っている。また、地域の中には慰安所も設けられた。

JR柳本駅前の住宅街。このあたりに朝鮮人労働者の飯場があった

 もはや飛行場があったことを示すものはないが、それでも地元の人々は、歴史の事実だけは残すべきだと考えた。

 1995年、天理市と市教育委員会は、飛行所跡地の一角、現在は市立公園となっている場所に、銘板(説明版)を設置した。

 「大和海軍航空隊大和基地跡について」と題された銘板には、建設の経緯などが記されていた。

 「多くの朝鮮人労働者が動員や強制連行によって柳本の地につれてこられ、厳しい労働条件のなかで働かされました」

 「慰安所が設置され、そこへ朝鮮人女性が、強制連行された事実もあります」

 さらに、地元の市民団体などが聞き取り調査した朝鮮人労働者の証言も刻まれていた。

 「寝ているときに急に人が入ってきて連れていかれた。1943年の秋だ」

 「トラックで運ばれた後、貨物列車に乗せられて着いたのが柳本だった。何百人といた。私の村からは4人いた。とにかく多かった」

 「朝5時半に起きて、飛行場建設にあたった。沖縄戦が始まってからは、夜にもトンネルを掘らされた」

 強制連行の事実をそのまま記述しただけである。

 だが、これらを過去形で述べなくてはならないのは、すでにこの銘板がなくなってしまったからだ。いや、正確には隠されている。

 その様子が、下の写真だ。

市立公園内に放置されたままの「説明板」

 銘板が厚手のビニールシートで覆われ、さらにガムテープでぐるぐる巻きにされている。実は、この状態のまま、すでに9年もの間、無残な姿をさらし続けているのだ。

 いったいなぜ、こんなことになっているのか。

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