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東海地区大学・社会人有望選手特集① ジェイプロジェクト 靏我祐季 投手 “最速150km/h。厨房で包丁を研ぎながら都市対抗の本戦出場を目指し、牙を研ぐ無名右腕。“

2024年もあと少し。
野球界もシーズンの活動が終わりを迎え、忘年会や納会等が行われる12月。
今日の夜も様々なところでお酒を飲み、わいわいと騒ぎ、1年を振り返りながら疲れをいやしている頃かなと思われる。

そんな中、そういった方をお客様として迎え入れている野球人もいる。
今回はそんな来年の“ドラフト候補”が働いている野菜巻き串串揚げきじょうもんにお邪魔した。

その選手の名は靏我祐季(つるが・ゆうき)

カウンターから見えるキッチンでお客様を出迎える。

今年、ジェイプロジェクトのルーキー投手としていきなり大車輪の活躍。
184㎝と恵まれた上背から最速150km/hを投げて、東海地区の社会人ファンを驚かせた。
そんな彼は東都大学リーグ3部に所属する帝京平成大出身。紆余曲折を経てジェイプロジェクト(株式会社ジェイグループホールディングス)へたどり着いた。ジェイグループが経営する居酒屋の店舗で働きながら来年のドラフトでのNPB入りを目指す彼に取材をさせてもらった。

マウンドでは150km/h近い球を投げて強豪チームを抑え込む。

〇店舗と野球の生活

靏我投手の普段の練習日のスケジュールはこんな感じ。

7:00起床
7:30バスで練習場へ移動
8:30練習場に到着
12:00練習終了
13:00寮へ帰宅
15:00店舗へ出勤
24:00仕事終了
24:30寮へ戻る・就寝

ざっと聞いて、睡眠時間が厳しそうというのが最初の印象である。
本人に聞くと、「そうですね。夜も帰ってすぐに寝られるわけではないので・・・。球場への移動中、練習後から店舗へ行く間に仮眠をして、睡眠時間を確保しています」。
特技は“寝ること”。ここで特技を生かして睡眠時間を確保する毎日。

そんな靏我投手が働く「野菜巻き串 串揚げ きじょうもん」ではキッチンを担当。切って、焼いてと悪戦苦闘中。
「料理は今までの人生であまりやってこなかったので・・・。それでも少しずつ慣れてきました」と頭を掻く。
キッチン担当なので、直接お客様と接する機会は少ないそうですが、キッチンで美味しい料理を作る靏我投手の様子は店舗で見られるかも。

厨房にて料理を作る靏我祐季投手。

ジェイプロジェクトとは

ジェイプロジェクトは企業チーム登録の社会人野球チーム。
これを運営する株式会社ジェイグループホールディングスは居酒屋を多く経営する企業で、ジェイプロジェクト野球部の選手はジェイグループのスタッフとして働きながら、野球をするというスタイル。企業チームの中で仕事にも重点を置くスタイルは少数派といえそうだ。
これまで都市対抗本戦に2度出場(2012年・2020年)。NPBに2名輩出。
今年でチーム運営は15年を数える。“

〇ジェイプロジェクトへ来ることになった“2つの転機”

靏我投手がジェイプロジェクトへ入部する上で、2つの大きな転機があった。

一つ目は帝京平成大3年の夏に大学の先輩を通じてジムの“DIMENSIONING”に通うことになったこと。トレーナー・北川雄介氏の指導を受けて、一気に視界が開けたと言います。

「当時はひじが痛くてそれがきっかけで通うことにしました。投球指導を受けることでひじの痛みも無くなり球も速くなった。コントロールもまとまるようになった」と効果を語る。

帝京平成大は2022年の春、靏我投手3年生の時に千葉大学リーグを脱退し東都大学リーグに“移籍”。最初は4部からのスタートでした。そこで優勝して3部に上がるわけですが、靏我投手は散々の出来だったという。すがる思いで行った“DIMENSIONING”で自信をつかんだ靏我投手。3年の秋にはリーグ戦で5試合に登板。3勝を挙げて劇的な変化をみせた。

もう一つの転機は4年になった年に監督として原克隆監督が就任したことだった。

原監督の就任が決まってすぐにどんな監督か調べたという。「中部学院大を一から強豪チームに作り上げた凄い人、野球界で顔が広い方。プロにも選手を送り出している監督」。
これはチャンスだとわくわくした。なぜなら靏我自身は高校の頃からプロ入りの夢をずっと持っていたから。

その思いは最初のキャンプでの面談で原監督に伝えたという。「『だったら球をもっと速くしろ』と言われました」と笑うが、また一つ道が開けた気がした。
監督からは「『とにかくストライクゾーンに投げてくれ。そうしないと試合が始まらないから』と言われたくらいです。難しいことは言われなかった」と振り返る。

4年生になる段階で、社会人かプロに進みたいという希望は持っていた。しかし現実として、東都大学リーグの3部にNPBスカウトが来ることはまずないし、企業チームにも何社かトライアウトを受けたがいい返事はもらえない。

そこで原監督が親交のあったジェイプロジェクトの辻本弘樹部長へ紹介し、入部が決まる。
「ジェイプロジェクトが環境として楽じゃないのは分かっていました。ただ、現実問題として、他の企業にいくあてもないですし、その時点では143km/hがMAXのどこにでもいるピッチャー。だったら野球を続けられる環境で、さらに自分を成長させて2年後のプロを目指そうと決めました」と決意を固めたという。

〇無名の高校から紆余曲折を経て帝京平成大へ

(残り 2016文字/全文: 4346文字)

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