BUBU’S EYE

MY HISTORY7 コーチ時代に出会ったあのコーチ。

なんのためにもならない記事かもしれない。自分の歴史を見られるのはとても恥ずかしい。でも、いつなんどき不測の事態が起きるかわからない。これまでの過去を書いておこうと思いたった。

今までのハスケットボール人生てもっとも多忙だったのは大学たった。両親との約束て、教員免許を取ることがミッションたった。



中学まては地元の横浜国立大に行って先生になろうと思っていた。

しかし、高校を選ぶ時点てあっさり進路変更をした時点から少しずつ方向が変わってきた。

走るのは苦手だが、外を走るよりも体育館では走れた。
高校2年で陸上専門のN先生が顧問になり、ランメニューが増えた。(高校時代の話はまたおいおい)


体力には防衛体力と行動体力がある。その体力がものをいったのは大学時代だろう。

教育学科で英語と体育の教員免許取得を目指すためにはめちゃくちゃ単位数が必要となる。4年になってもほぼ毎日授業があった。しかも、日本文化出版での仕事ももちろん続けている。さらに、3年の終わりには同好会から別れて女子ハスケットボール部を創部、関東女子学連に加盟。自分自身もコーチ兼プレイヤ―。
我ながらタフだった。

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