西武・栗山巧の甲子園は土壇場に強い男を作った原点。「最後のバッターになりたくないという想いが根っこにある」。
ことしも夏の風物詩「甲子園」が開幕した。プロ野球選手のほとんどが高校野球を経験し、この舞台を目指してきた。甲子園出場を果たせた選手、念願叶わなかった選手がそれぞれいるが、彼らにとって「甲子園」はどんな意味を持ったのだったのだろうか。今月はプロ野球選手にとっての「甲子園」を中心にお送りしていく。第4回目は西武ライオンズの栗山巧選手。(取材・文 氏原英明)
現在、プロ野球で活躍する選手たちのプレースタイルを形作ったのはどんなときなのだろう。
当然、アマチュア時代の経験が彼らには大きいのだが、最も輝いていた時、ある経験からそれは生まれたりする。
2021年にプロ野球史上54人目となる2000本安打を達成した栗山巧選手(西武)は、チームの精神的支柱として土壇場でチームを救う活躍を見せてきた。
プレッシャーのかかった場面でこそ活躍を見せる彼の選手としての強さはどのように生まれたのだろうか。
「個人的には苦い思い出しかないですけど、まだまだやなっていうのを教えてもらった感じでした。でも経験としてはすごい良かったなって 」
兵庫県・育英の出身の栗山は高校2年の春・夏、甲子園に出場している。春は初戦敗退で、夏は準決勝に進出。彼にとって甲子園はどんなものだったのだろうか。
「ああいう華やかな舞台で緊張感もあって。あんだけのお客さんに見られる経験は予選ではなかなかないんで。そんな中でやれたっていうことはいい経験でした」
甲子園など全国の舞台は華やかだ。だからこそ、その中でのプレーは一層、緊張するしいつものプレーができないということもある。その経験が選手としてのスケールを生み出すのである。
その経験をどのように活かしていくのかは千差万別だが、栗山の場合、高校時代に受けてきた時の教育が大きい。
当時の育英高校の指揮官・藤村雅美監督(故人)は初代ミスタータイガースでも知られる藤村富美男さんの次男だが、自由な練習スタイルが持ち味の指揮官だ。筆者もご存命の際に取材に行ったことはあるが、声を荒げているのをほとんど見たことがない。
それどころか全体練習は2時間程度でそそくさと帰宅して行った。
栗山はそんな指導者のもとでプレーしていた。つまり、強制が少ない中で高校時代を過ごしたのだ。その影響はあったのだろうか。
「僕は高卒やから、 そっくりそのままプロの練習に違和感なく入って行けたのはあります。もちろん、厳しい指導も受けています。入学した時は厳しい監督だったんですよ。1年の夏が終わって交代したんですよ。 1年の夏まで厳しすぎたんで、そのあとはこんなんでいいんかなとかいうのはありましたけど、しっかり監督とコミュニケーション取れてたし、やっぱり考える癖っていうか。それはついたと思う」
育英の練習環境は恵まれていた。自分で考えて練習できるだけの道具とスペースが十分にあった。「ロングティーしたり、 マシン打撃もできるし、自主練習の時間を使っていろいろ考えてやりました」と栗山はいう。
栗山の今のキャラクターに強烈な「個性」を感じるのは高校時代から強制されず考える時間と自由を与えられてきたからだろう。だからこそ、試合での失敗や成功を彼なりに受け止めることができてのではないか。自分がプレイヤーとしてどうなりたいかの青写真はそうして形作られていったかもしれない。
「甲子園には2回出れたんで、経歴負けをせぇへんというのは大きかったですね。でも、甲子園での苦い経験は(自分の中に)残りましたね。 辛い経験は根っこの部分で残り続けていると思います」
辛い経験とは高校2年夏のことだ。
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