限界突パ

千葉ロッテ・中村奨吾は「諦めの早い選手」だった。人生を変えたコンバート直訴。

夏の風物詩「甲子園」が閉幕。107年ぶりに慶應義塾が優勝した。報道などを見ても「甲子園」は日本人の心にいつまでも残っている。プロ野球選手のほとんどが高校野球を経験し、この舞台を目指してきた。甲子園出場を果たせた選手、念願叶わなかった選手がそれぞれいるが、彼らにとって「甲子園」はどんな意味を持ったのだったのだろうか。今月はプロ野球選手にとっての「甲子園」を中心にお送りしていく。今回は千葉ロッテの中村奨吾選手(取材・文 氏原英明)。

気迫が前面に出る選手ではなかった。
むしろ逆のタイプと言っていいかもしれない。

千葉ロッテのキャプテンを務める中村奨吾選手の高校時代は今とは想像できないものだった。

「別に、悔しそうな顔もしてなかった。ああそっか、という感じで」

1年秋の新チーム。1番センターでレギュラーを掴んだ中村だったが、県大会20打席でノーヒット。高いポテンシャルを評価されてコンバートしてまでレギュラーポジションを用意されたが、県大会を制覇した近畿大会に進出したそのメンバーから中村は外れたのだった。

冒頭の言葉は天理高校の当時のコーチによるものだが、中村には周囲から見ても明らかなくらいに、諦めの早いところが態度にも出ていたのだ。

中でも忘れられないのがシーズンオフの練習での一コマだ。
トレーニングメニューだったある日、練習の最後に持久走をやる時間があった。3人1組になって競う練習で、最下位のチームになると後片付けをしないといけない罰ゲームが待っていた。

ランダムにチームを振り分けるのだが、持久力が割とあった方の中村の組にはチームの1、2を争うくらいの鈍足選手がパートナーとなった。

持久走がスタート。1番手は中村だったのだが、なんと、その際、中村は手を抜いて走ったのだ。勝てる見込みがないと感じた中村はトロトロと決まった距離だけを走った。どうせ最下位になるなら体力を使うだけ無駄だ。そうでもいいたげな態度だった。

当時の天理は西浦直亨(DeNA)という攻守の要を擁して近畿大会を制覇。翌春のセンバツにも出場したのだったが、そんな態度の中村がベンチに入れるはずもなかった。チームには中村と同学年の選手が2人、レギュラーを獲得していたが、存在感は全くなかった。

中村が一気に頭角を表したのは春のセンバツが終わってからだった。春季奈良県大会の取材に行くと、背番号が15の選手が一際目を引き、それが中村だった。アウトコースの変化球を右中間に飛ばしたかと思うと、インコースのストレートをレフトポール側に突き刺す。とんでもないバッターになっていた。

監督の森川芳夫曰くチーム力に上積みが必要だったため、中村に白羽の矢が立ったのだ。「3番・中堅手」のポジションを用意した。

指揮官の狙いはただのメンバー入りではなく、チームの重要なポジションに中村をつけるということだった。いわば、役割を重たいものにする、ということだった。

この狙いは的中。中村はそのままレギュラーを掴むと、夏の甲子園を「3番・センター」で出場を果たしている。

新チームになってからも3番を務めた中村は翌春のセンバツにも出場。チームの不祥事があったために、監督が不在となり1回戦で敗退となったが、センバツから戻ってくると復帰した指揮官の元を訪れ、中村はあることを直訴したのだった。

「内野をやらせてほしい。ピッチャーの近くに行って、チームを支えたい」。

それまでの中村からすれば考えられないことだった。1年秋の近畿大会のベンチを外れた時、あるいは、オフシーズンでの手抜き練習。中村に責任を背負わせることで彼自身、変わるところがあった。

もっとも、他に理由もあった。

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