泉鏡花『恋女房』が見抜いた廃娼運動-『女工哀史』を読む 16(最終回)-(松沢呉一) -5,564文字-
「与謝野晶子と有島武郎の矯風会評価-『女工哀史』を読む 15」の続きです。
泉鏡花は吉原をどう見ていたのか
有島武郎著『或る女』以外にも、廃娼運動の本質を見抜いていたのではないかと思われる文学作品がある。泉鏡花の戯曲『恋女房』(鳳鳴社・大正二年)がそれ。
以下、エンディングまでストーリーを書いているため、読んでない方は、先に国会図書館が公開している『恋女房』を読んでから、こちらを読んだ方がよいかと思う。読むのが面倒な方はこちらをいきなり読むのもよし。
主人公はお柳(りゅう)。吉原の引手茶屋で育ち、根岸の土地持ちである浦松家に嫁いだ。「柳」はおそらく吉原土手の見返り柳からとったものであり、吉原の象徴がこのお柳である。
明治四四年の吉原大火で実家の引手茶屋は焼け、姉を亡くし、もはや再建は難しいとお柳は悲しみのどん底に。
そんな時、自動車を走らせ、部下や赤坂の芸者衆を引き連れて、焼けた吉原を見物に来たのが、工場経営者の恋坂岩造(がんぞう)であった。物語はここから始まる。
彼らは浄閑寺で、茶碗を蹴り、石碑を倒し、こう嘯く。
日本の体面を汚す……暗中(くらやみ)の恥を明地(あかるみ)へ電燈で晒し居った、芳原(よしわら)の、あの様(ざま)を見い。今も此へ来る前に、自動車を走らかいて見物をして来たが、焼崩れた土蔵の壁は、此処の石塔同然、廓中は宛然(まるで)これ、此の浄閑寺の乱塔婆ぢゃ……此の乱塔場と云ふた処で、やがて又焼けて野原に成るじゃろ。……其処へ工場が立つ。……即ち、日本の体面を保つ事が出来る。ト同時にぢゃ。……鮒や蜆は滅びて了ふわ。はッはッはッ。
岩造は、ここに工場を建てようというので火事場見物に来たのである。
岩造が経営する会社の社員である気三郎もこう言う。
イエス! 動物虐待が悪いと云って、蝿を殺さずには居られんです。投込みの女郎が可哀(あわれ)だと云って、苟(いやしくも)も帝都の中(うち)に、こんな墓原を保存するのは、倶に天を戴くものの恥辱です。……所謂其の、古き醜きものを破壊して、新しき世界を建設するのは我々の任務ですからな。天、既に吉原を焼亡(しょうもう)し畢(おわん)ぬ。況や腐れたる肉と朽ちたる骨との、此の芥溜(はきだめ)に於てをや。
芸者の一名を除き、彼らは最初から最後まで徹底した悪役として振る舞い、その傍若無人で無神経な行動と言葉は読者の怒りを嫌でも喚起する。
吉原潰しを狙う赤魔姥
すべては金と考え、金にならないものは無価値とし、時におかしな英語を交えて、吉原を侮辱する彼らに対抗するのがお柳である。
しかしながら、夫の重太郎は母親の槇子に頭が上がらず、嫁の出身地である吉原を蔑視し、お柳をいびり、暴力を振るうことにも抵抗ができない。妹の樫子も母親について、お柳を責める。
この樫子の婚約者が岩造なのであった。ここから槇子・樫子・岩造とお柳との対決が描かれるのだが、ここに赤魔姥という妖怪のような存在がからんでくる。「妖精」と説明されているが、妖術を使う悪魔のような存在である。
おそらく舞台では、槇子と同一の役者が赤魔姥を演ずるように設定されていて、槇子の分身として立ち現れる。もしくは、赤魔姥こそが本体か。
そして、この赤魔姥が吉原に火を放って明治四四年の大火が起きたということになっている。
槇子・樫子・岩造・赤魔姥の連合軍に対して(連合軍という言い方はしていないが、以下、この言葉を使う)、お柳には墓守や吉原に住むかつての仲間らがつき、連合軍の不当な要求に辛抱できなくなったお柳は家を捨てて焼け跡となった吉原に戻る。
夫の重太郎も家を捨ててお柳の後を追い、赤魔姥との死闘で二人ともに死線をさまよいながらも、最終的には二人の心が物質と金にまみれた連合軍に勝利をするというお話。
敵と味方がはっきりと描き分けられており、世間一般では、しばしば吉原の楼主たちは金の亡者として描かれるが、ここでは逆転していて、連合軍こそが心を失った金の亡者である。連合軍は、近代の人々を象徴していると見ることが可能だが、それが工場や金、自動車という形で表現されているだけでなく、連合軍は廃娼運動のメタファーになっていると読める。
現実に、吉原大火のあと、廃娼運動は吉原の再興を拒むべく、さまざまな働きかけをし、廓清会を結成し、雑誌「廓清」を発行するなど勢いづいていた。大火という不幸に乗じて工場を建てようとする岩造の姿に重なるのだ。ことによると、当時、そのような主張を廃娼派はしていたかもしれない。「原っぱになった吉原は工場にでもしてしまえばいいのだ」と。
※吉原となんの関係もない火事現場の写真
浄閑寺をめぐる対立
この両者の違いをもっともよく見せているのが、浄閑寺の評価である。連合軍はここを吉原の象徴として見て、言葉の限りを尽くして罵倒をする。
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