フェミニストたちはミソジニー表現だと指摘—「体を売る」「女を買う」の違和感 2-(松沢呉一) -2,701文字-
「西村伊作の売春肯定論—「体を売る」「女を買う」の違和感 1」の続きです。
「体を売る」「女を買う」に対する違和感の正体
前回の「西村伊作の売春肯定論」を読んでいただければおわかりのように、誰に言われたわけでもなく、自身の中の違和感から、このことを言い始めて、かれこれ20年くらいになりそうですが、私は「体を売る」「女を買う」という表現に抵抗があります。
売買春で売り買いされるのは、性的サービスです。それに付随するものとして「会話」があり、「癒やし」のようなものがあったり、「人生相談」のようなものがあったりはしても、それ以上ではありません。
セックスワーカーたちは、肉体を切り売りするわけではないし、まるごと自身を自由にできる権利を売っているわけでもない。
「女を買う」「遊女を買う」といった言い方は江戸時代からあって、人身売買の時代の残滓ではないかと以前は思っていたのですが、これはどうも違っていて、女の地位、女の評価を反映したものと考えた方がよさそうです。
そう指摘しているフェミニストたちがおります。
フェミニストのマニフェスト

1.わたしたちは、セックスワーカーを、自分自身の生活及びニーズにおける専門家だと認識する。フェミニズムは、過去に常にそうしてきたように、仕事と身体に対する女性の行為主体性と自己決定権を擁護しなければならない。セックスワーカーが例外とされるべきではない。
2.わたしたちは、セックスワークに従事するというセックスワーカーの決断を尊重する。わたしたちはフェミニストとして、セックスワーカーが 「身体を売る」又は「自分を売る」というミソジニー的な言説を拒絶する。セックスは自分を提供することだ、あるいは自分の一部を失うことだと暗示するのは、根本的に反フェミニスト的なものだからである。女性はセックスによって価値を損なわれない。さらにわたしたちは、セックスワーカーが「女性、セックス又は愛情行為の商品化」に寄与しているといういかなる分析も拒絶する。わたしたちが他の女性に害をなすとして非難するのは、家父長制やその他の抑圧的なシステムであって、セックスワーカーではない。
3.わたしたちは、セックスワーカーが同意したと言明する力があると断言する。セックスワークにおいて同意など不可能だと言うことは、セックスワーカーから自分に何ができて何ができないかを決める能力を奪うことであり、暴力にはっきりとノーという力を奪うことである。顧客はセックスワーカーの身体又は同意を「買う」のだから、顧客はセックスワーカーに対してやりたいことができるという考えを広めることは、セックスワーカーの現実の生活/生命に危険な影響を及ぼす。さらにこの種の考えは、全てのセックスワークを暴力の一形態と見なすことにより、暴力に対処するという名目でセックスワークを取り締まる方向につながりかねない。しかし実際には、セックスワークの取り締まりによって逆に、セックスワーカーは暴力に見舞われやすくなる。
(略)
私がこれまで言ってきたことと多くの点で合致しています。
このマニフェストでは、セックスワーカーの主体的決断を尊重すべきことが明快に宣言されています。セックスワーカーが「自分の意思でやっている」と言明することに、「そう思わされているのだ」「社会から強いられているのだ」と第三者が決めつけてはならない。それは女の主体的選択を否定することであり、「女には自分の意思で決定する能力がない」と貶めることです。
マニフェスト第2項で、「身体を売る」「自分を売る」はミソジニー的言説であり、反フェミニスト的なものだと指摘されております。セックスごときで、女の価値は低減しない。みだりにセックスをしないことが女の価値だとするのは道徳に他ならない。
たしかにこの主張は納得しやすい。納得したので、私は「身売り時代の残滓説」から、こちらに乗り換えました。
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「体を売る」「女を買う」という表現は、女の本質はセックスであり、それでしかないという価値観に基づいています。セックスは女の全人格なのだと。セックスと出産と育児のためにだけある存在から、セックスのサービスを買うと、その全人格を買ったことになる。
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