松沢呉一のビバノン・ライフ

女こそ外科医に向いている—女言葉の一世紀 136(松沢呉一)-3,569文字-

東京女子医科大学の創立者・吉岡彌生—女言葉の一世紀 135」の続きです。

 

 

 

吉岡彌生の言葉

 

vivanon_sentence以下は東京女子医科大のサイトから、創立者・吉岡彌生の言葉。

 

 

 

濃淡が違いますが、前回出した夫婦の写真と同じ写真です。

この一文からすると、女性の自立を目指し、社会的地位を向上させようとしたようです。これ自体は事実です。吉岡彌生は婦人の社会進出に肯定的でした。そのための東京女医学校設立だったのです。それ以降の記述も間違いは何もありません。この通りなのです。

しかし、この一文からは読み取れないことがあります。東京女子医科大学にとっては迷惑かと思いますが、以降、それを補足していきます。

 

 

女こそ手術に向いている

 

vivanon_sentence医学は婦人に適している」という考え方は吉岡彌生の根幹にありました。ここは一貫しています。

以下も塩沢香著『医海きのふけふ』より。

 

もう十年程前のことですが、医界の奇傑を以て鳴った故川上さんなどと一夕晩餐を共にして語ったことがありました。其席上で色々話の末「女が平気で産科手術や、帝王切開や乃至は子宮剔出等が出来るとしたならば、その女は最も残忍性を有し到底家庭へ這入って慈母たるの資格のないものである。故に女医は小児科や眼科に限る」、と云ふ様な話を伺いました、そこで私は「残忍なる産科手術を施せばこそ健全なる母子を得らるるのである。冬の春来る位の理性的つかぬ女であったらこれこそ家庭這入って慈母たり、賢婦たることが出来ぬ者であらう、一時の痛苦を凌いで回春の日の楽を俟つ為めに努力するのは日本婦人の特性でせう」と答へたことがありました。

(略)

私の医育に関する信念は依然として此の通りです。故に女子なるが故を以て小児科、乃至は眼科の如く比較的観血的の手術を要しない専門丈を選ばせやうはしません。女子の特性たる緻密な注意力は外科、産婦人科等に見る大手術に甚だ必要なものであることは言を俟ちますまい。女子は総ての点に於て医師たるに適するものとは私の生涯を通じての信念です。否恐らくは何人と雖も異議を差挿むことの出来ない事実でせう。

 

 

素晴らしいことを言ってましょう。注意力だけじゃなく、手先の器用さを考えても手術は女医向きです。

この頃までに吉岡彌生は東京女医学校を東京女子医学専門学校にし、かつ指定医学校に格上げして、卒業者全員に医師免許が与えられるようになってました。

この時代にも、女医が選ぶ診療科は血を見ることの少ない眼科、小児科に集中していて、外科を避ける傾向があったことがこの一文からわかります。

それをなぞって、小児科、眼科を専門とする医者だけを育てる手もあったのでしょうが、吉岡彌生は、女だって手術ができるというだけでなく、女こそが開腹するような手術に向いているとしたのです。

この辺の考え方は若き頃から欧米の新思想に感化されたもののようで、旧弊を嫌い、やはり医師である親の反対を押し切って女で医者になろうと決意したこともその考え方によるものでした。

 

 

自力で医師になるための済生学舎

 

vivanon_sentence文中に出てくる済生学舎というのは長谷川泰が創立した医学専門の私塾であり、日本医科大の前身です。日本医科大学になる前の日本医学専門学校の時代に生徒たちが叛乱を起して創立したのが東京医科大学の前身である東京医学講習所

済生学舎は入学試験がなく、いつ入学して、いつ辞めてもいい。卒業しても自動的に医師免許がもらえるわけではなくて、医術開業試験を受けなければいけません。この頃は、学校を出なくても、国家試験を通れば医者になれたのです。もちろん、容易ではなくて、数年間ここでミッチリと勉強や実習を重ねます。

多くの医師志望者が集まり、野口英世のように大成した医師も輩出しています。野口英世は入学から半年で試験に合格しており、これが済生学舎の最短記録。

女子に門戸を開いている医学校は少なかったため、済生学舎に行くのがほとんど唯一の方法で、彌生はここに通って猛勉強をして三年で医師免許を取得。これ以前には十四、五名の女医がいて(と本人は書いているが、東京女子医科大のサイトによると吉岡彌生は二十七番目の女医だったのとこと)、それらは全員済生学舎の出身でした。

 

 

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