他者の権利を制限すると自身の権利も制限される—心の内務省を抑えろ[17](松沢呉一)-2,836文字-
「部落民とは誰か—心の内務省を抑えろ[16]」の続きです。
このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭り」からスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。
属性による二元論の誤り
このシリーズの前に論じていた「そうではない人が在日と言われても否定してはいけない」という考え方も、在日と日本人で「自分は何者であるのかを主張していい権利」の行使に差がついている点において、朝田理論の延長にある、あるいは類似している発想と見なすことが可能です。在日は日本人の権利を制限することができる属性だということです。
私はこの考え方に反発がありました。「属性を問わず、権利は誰にも等しくある。だから差別は否定されるべきである」という考え方と対立してしまうのです。
朝田理論に当てはめて考えると、「在日が不快と感じたら全て差別なのだから、日本人は在日であることを否定してはならない」「差別か否かは在日しか分からない」ということです。そこまでは誰も言ってないですが、考え方の筋道としては同じです。
属性による二元論であり、ある個人の立ち位置や発言は、属性によって絶対的に規定されるという考え方です。これは無理があります。無理があるにもかかわらず、それを主張する人たちが必ずと言っていいほど出てきます。
最近は聞かなくなりましたが、「ヘテロ強制社会」みたいな考え方の延長で、異性愛者の異性愛者たる主張は同性愛者の居場所を奪い、その自己主張をできなくしてしまうのだとの考え方があります。この考え方においては、異性とのセックスを語ること、異性との恋愛を語ること、異性との結婚を語ることもすべて批判の対象になります。
現実に異性愛者であらんことを強制される場面はあるでしょう。異性と恋愛し、異性とセックスし、異性と結婚するのが前提になっていて、そこから外れることが難しい会社は今も存在し、同性愛者であることがわかると不利益を受けることもなおあって、それを「ヘテロ強制社会」として批判し。改善を求めるのはいいとして、個人が異性愛者であることを表明することまでがその社会に加担しているとするのは馬鹿げています。
もしこの時に、異性愛者の主張を抑えることで同性愛者の主張が可能になる可能性があるのであれば、少しは検討する意義があるでしょうけど、異性愛者が異性愛者であることを主張できない社会では同性愛者も同等に主張できないか、今以上に主張できなくなるでしょう。
それ自体が馬鹿げているのと同時にこの発想はそう主張する人々自身の権利も剥奪する必然に無自覚である点が馬鹿げています。
マイノリティの主張も制限される
普遍主義の立場からすると、異性愛者と同性愛者という属性に関わらず、どちらも等しい権利があると考えます。だから同性愛者が結婚できないのは不当。「自分は何者であるのかを主張していい権利」を行使できないのは不当。それぞれが等しく権利を持つのだから、その権利を制限するもの、とくに法制度は変えるべきであり、ヘテロと同じ権利の行使ができるようにしようと考えます。
同じく在日韓国人・朝鮮人が自身の属性を意思表示して理解を求めていい。それと等しく日本人も自身が何者であるのかの理解を求めていい。
対してヘテロや日本人の権利行使を制限する発想は、同性愛者や在日が自分が何者であるのかの主張もまた制限されることを容認するしかない。ヘテロとゲイは性自認においてズレはなく、同性愛者の自己主張はトランスジェンダーを抑圧するという言い方が可能になるからです。アセクシャルの人にとっては異性愛者も同性愛者も自分の存在をなきものとして扱うものだという主張が可能になってしまい、異性愛者も同性愛者も黙るしかない。
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