手本はハンJ民—心の内務省を抑えろ[20]-(松沢呉一)-3,069文字-
「野間易通に共感した点—心の内務省を抑えろ[19]」の続きです。このシリーズは2ヶ月以上前に一気に書いたもので、その後、5ちゃんをまったくチェックしていないので、今もここに書いたことがそのまま該当するかどうかわかりません。
このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭り」からスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。
足を踏まれた痛み
属性を重視して、排他的な判定の資格があるとすることは、こと部落解放同盟だけに見られることではなく、他ジャンルでもしばしば見られることです。よって朝田理論が生み出したとは言い切れず、むしろ属性に対する重さが先にあって、それを土台にして朝田理論が生み出されたと考えた方がよさそうです。
「オカマ論争」でもそうでした。「すこたん企画」は部落解放同盟と何も関わりがありません。「週刊金曜日」は部落解放同盟の苛酷な糾弾に屈したわけでもありません。その動機がなんであったにせよ、その背景がなんであったにせよ、部落解放同盟とは無関係のところでも言葉は狩られるのです。
たとえば「足を踏まれた痛みは踏まれた側しかわからない」といったことを言う人がよくいます。これ自体は間違いとは言えない。しかし、「踏まれた側が差別か否かを判定する唯一の資格者である」という意味であるなら、「差別か否かというのは被差別者しか分からない」というテーゼの変形です。実際に、朝田善之助自身もこういうことを言っていたと記憶しますが、それを知って影響されたのではなくて、朝田理論に通じる心性の人たちが多数いるってことなのだろうと推測します。
足を踏まれた人はその被害の実情を知る場合にはもっとも重要な証言者となります。その発言は優先されなければならず、尊重されるべきです。
しかし、足を踏まれた側も判断を間違えます。よって、その人が唯一の判定資格を持つわけではない。判定者の資格として、これを言い出した時には「心の朝田善之助」が暴走し始めています。
裁判は当事者が判定するのではない
足を踏まれたことが判定者の資格になるなら、「被害者しか痛みがわからないのだから、判定できるのは被害者である」として、被害者の言う通りに判決を下す裁判に等しい。こんな怖い裁判はないですよ。被害者が死刑宣告をしたら死刑になるしかない。
ある犯罪が裁判になった時に、被害者の発言は尊重されなければならず、被害者の証言が無視されることはあってはならない。しかし、被害者が判定者になるわけではない。足を踏まれたわけではない裁判官が判定者になる。
判定の資格として「足を踏まれた痛みは踏まれた側しかわからない」と言いたがる人たちは裁判は不当だと思っているらしい。そういう人たちは、絶対裁判なんてやらない方がいい。
現実に不当と言うしかない判決もあって、それはそれで批判をすればいい。その批判は誰がやってもいい。
利害がある当事者は冷静な判断ができなくなって、妥当な判決も不当と言いたがりますが、それが人間というものであって、これ自体はことさら非難するに当たらないと思うのですが、「だから、判定は自分しかできない」と言い出せば「おいおい」って話になりましょう。
では、どうして我々は裁判を一定信頼し、当事者同士で解決しない場合に民事裁判に委ねるのでしょう。裁判官は正しい判決を下すことが期待されるからです。それを担保するのは試験を通って、そののちにもしかるべき経過を経ているってことです。その資格は法を理解していることを前提にしています。つまり、ここでは法という客観性のある基準が存在していて、それを一応は我々は信頼しているってことです。
手本はハンJ民
ここまで書いてきたようなことが「言葉狩り」を生み出したと私は考えているわけですけど、差別用語の扱いについてはハンJ民が手本を見せてくれています。
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