青鞜演説会で岩野泡鳴が語ったこと—女言葉の一世紀 156-(松沢呉一)
「岩野泡鳴の自由恋愛論とその実践—女言葉の一世紀 155」の続きです。
眠り女たちへ
岩野泡鳴著『男女と貞操問題 』に「青鞜社演説会当時の演説」が掲載されています。演説の草稿ではなく、実際に話した内容を速記したものです。
冒頭のつかみは「眠り女」の実例です。友人の文学士が結婚した相手が、何をしてもすぐに居眠りをする。針仕事をしながら居眠りをする。洗濯をしながら居眠りをする。食事中でも居眠りをする。井戸端でも居眠りをする。
一読して私は「病院に行った方がいいだろ」と思ったのですが、岩野泡鳴は、病気ではなく、「甲斐性なし」であったと言ってます。ただの怠け者だと。実際のところどうなのかわからないですが、そうしないと話がつながりません。
岩野泡鳴は、ここから得意とする文学や芸術の潮流について話を進めます。自我の目覚めから自然主義が発生し、新芸術、新思想を生み出しているという話に継いで本題に入っていきます。
諸君、又諸君の御家族にも、斯う云ふねむり女とでも命名すべき芸当者はないだらうと思ひますが、此問題を一つ僅かでも進めまして考へて御覧なさい。今日は婦人が主になっての演説ですから、婦人で申しますが、一般の婦人と云ふものが、特に婦人として考へてゐなければならぬことを考へてゐる人がどれだけありましょうか? 尤も諸君がさうだと定めて言ふのではありませぬが、一般婦人に対しどう諸君が観察なさるでしょうか? 詰り、真に夫婦と云ふものの関係を考へて見たことはあるか? 又家庭と云ふ問題を真に考へて見たことがあるか? 又社会と云ふものを婦人と関係させて考へて見たことがあるか? モ一歩進めて人生などと云ふ問題を考へて見た婦人があるか? 斯う云ふことを考へて御覧なさい。
なるほどなあ、なんの話かと思ったら、「自然主義、社会主義、国家主義などの新しい思想によって新しい社会を作ろうとして、男たちは変化している時に、女たちはまだ眠っているのではないか」と問いかけているわけです。相当に飛躍がありますが、演説はつかみが大事だなあと関心しました。つかみのためのウソ話かもしれないですが、私は「ナルコレプシーだろ」と真剣に考えてしまいましたよ。
「婦人」という言葉、「女」という言葉
この問いは延々続きます。
諸君が一般の婦人に対して聞いて御覧なさい——自己として考へたことがあるかどうか? 個人として考へたことがあるかどうか。或は人類の一員としてどう云ふものであるかと考へたことがあるかどうか? 斯う聞いて御覧なさい。私は女ですから、さう云ふことは何も分かりませんと答えるでしょう。又、それを一般婦人は当り前と思ってゐる。(略)また社会と云ふことを考へたことがあるか、どうか? 矢張り、私は女ですから、家庭のことばかりにかまけまして——それでは家庭のことを考へて見たか、斯う言って聞いて御覧なさい。矢張り、私は子供もありますし、日常の副食物の世話もしなければならぬから、一向左様な暇がありませぬと云ふだらう。丸で瓢箪で鯰をとッちめるようで、お話にならない女ですからと云ふのが既に、今日では、謙遜でも何でもなく、自ら軽蔑した言葉です。婦人と云ふべき時に女と云ふのは、習慣上男子が婦人に対して軽蔑の言葉である。詰り、婦人と云ふものが、俗に「女」として子守やおさんどん位で満足してゐる其為でございます。初めに申しました文学士の細君と大した違ひはない。井戸端で眠らないが、子守やおさんどんとして眠り、箸を以てコクリコクリはしないが、一層高い人間としての標準から見れば、矢張り、ねむり女の程度である。
ここも「なるほどな」でした。言葉です。
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