写真に定着したそれぞれの文脈の対立—ホロコースト・マスクの是非[下]-(松沢呉一)
「やってはならない写真表現の扱い—ホロコースト・マスクの是非[中]」の続きです。
防弾少年団の原爆写真Tシャツ
というところに至って、結局のところ、「その表現は自身の中にある文脈と合致しているか否か」という問題なのではないかと気づかされます。
あのマスクは「ホロコーストはあってはいけない」という文脈なのかどうかがはっきりしない。「ホロコーストはなかった」という文脈ではあり得ないとしても。そこが落ち着きのなさを招く。「性器の文脈・ディルドの文脈」で見た「銃所持反対のプロテストでディルドを使うことの落ち着きのなさ」に通じます。
この「文脈違いの表現物に対する動揺」は防弾少年団の原爆写真Tシャツに顕著に出ています。
2018年11月10日「yahoo!ニュース」
碓井真史・新潟青陵大学大学院教授はこう書いています。
原爆のキノコ雲の写真を、原爆の悲惨さを伝えること以外の目的で使うことに、私たち日本人は違和感を感じるのではないでしょうか。
私は原爆のキノコ写真をあしらっただけのTシャツだったらスルーしてしまうと思います。記号化しているからです。そこには自動的に脳内で「NO MORE WAR」「NO MORE HOROSHIMA」「NEVER AGAIN」「核兵器は悲惨」「あってはならないこと」というメッセージが添えられます。
しかし、あのTシャツは原爆は戦争を終わらせた、いわば「解放の象徴」だとする韓国の文脈だと知って、うなってしまいました。原爆の悲惨さ、投下の不当性を強くわかっている側としては、どうしてもその文脈に強い反発を覚えます。
数十万人の民間人が亡くなったドイツへの空爆を肯定できるか?
たとえばナチスがやったホロコーストを前提にした時に、ドイツに対する連合軍の空爆は、ユダヤ人を解放した行為として讃えられるべきかどうか。
空爆で亡くなった数十万人の多くは民間人です。その民間人の圧倒的多数はヒトラーを讃え、ナチスを讃えた人々ですから、彼らもまたナチスドイツを支え、ホロコーストを支えた以上、責任はゼロではないですが、死に値するほどの責任か否か。
前回見たDischarge「War Hell」のジャケットの左下は連合軍に空爆されたドイツ・ドレスデンの写真です(下に出したのがフルサイズ)。ベルリンであれ、ハンブルクであれ、ケルンであれ、多くのドイツの都市はこういう状態になりました。建物は破壊し尽くされ、黒焦げになった遺体が累々と横たわる。
このジャケットは、あるいはこのアルバムのコンセプトは、戦争自体の否定であり、ドイツの都市が破壊されたことを肯定しているのではありません。「ナチス、ざまあ」「ドイツ人死ね」ではないのです。
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