松沢呉一のビバノン・ライフ

民主主義の修復は可能か—パンデミックの年を振り返る[7](最終回)-(松沢呉一)

フリーダム・ハウスの評価でスウェーデンは100点満点、では日本は?—パンデミックの年を振り返る[6]」の続きです。

 

 

 

日本の不自由さはどこに起因するか

 

vivanon_sentenceフリーダム・ハウスの高い評価を示す数字を見せられても、「日本は自由な社会だ」「日本は民主的な社会だ」と言い切ることにためらいが生じるのはなぜか。なんで私もそう言い切れないんだろうと考え込みました。

その最大要因は個々人の内的不自由さだろうと思います。「言ってもいいのに周りを気にして言わない」「やっていいのに周りを気にしてやらない」「周りに合わせることを優先し、そうしているうちに疑問も抱かなくなる」ってことであって、これは数字に出ない。

このことはマスクについて同志社大学の調査が明らかにした通りです(マスクに予防効果を求めている人はほとんどいないことを明らかにした同志社大の調査—マスク・ファシズム[14]」)。何度も書いていますが、あの調査は衝撃でしたが、納得もしました。

日本のこの特性は「マスクは感染を防ぐ」という前提においていい方向に機能し、法による義務化を必要としませんでした。それでもマスクをしない人の排除は一部で行なわれたわけで(「騒いだのは乗客が悪いのだけれど、マスク拒否はそんなに悪いのか?—マスクよりもフェイスシールド[22]」)、暴力を行使する人もいました(「判断力が欠落した暴力マスク警察を催涙スプレーで撃退—マスク・ファシズム[18]」)。マスクの意味をひとつひとつ理解しているわけではないままトラブルを起こしています。

もしここに法の後押しがあったら、中国やフィリピンのように自警団が町内を引き回し(「中国から始まったマスク着用の義務化—マスク・ファシズム[4]」)、集団で暴行することが公然と行なわれかねない(「マスクをしない人に暴行を加えるフィリピン自警団とNY警察—マスク・ファシズム[6]」)。

日本は民主主義ポイントが高いことを自覚するとともに、悪い方向に動き出した時にはセーブできない性質を孕んでいることも自覚し、この社会が不自由で非民主的だと感じるものはどこに起因しているのかを見極めないと間違えます。

たとえば脇毛を伸ばせないことは自分ができないだけなのか、他者ができなくさせているのか(「同調圧力を作り出しているのは自分自身—YouTubeで見る脇毛[15]」)。自分が変態であることを認められないのは自分ができないだけなのか、他者ができなくさせているのか(「自意識過剰が自分を不自由にする—高嶋政宏著『変態紳士』[下]」)。

「ビバノン」的なネタをいきなり入れてみました。

「日本は政治的自由が満点」といった時に、「そうは言っても議員の女性率は低く、女は差別されているのだ」と言いたがる人が出てきそうですが、「日本の女性議員率」でさまざまな根拠を挙げて明らかにしたように、「政治家になろうとする女性が少ない」ということが主たる原因であって、制度ではない。

家庭や学校での男女の教育がなお違うということを示唆しますから、広い意味での制度ですけど、間接的、環境的要因のため、数字として拾いにくい。つまりは、個々人の内的不均衡の集積なのです。これを解消する努力もしないまま、いきなりクオータ制で改善しようとするのは無謀です。

与謝野晶子派の私としては、「まず自分の内的不自由さを改造すべきでは?」と言っておきます(「与謝野晶子の男女平等論—平塚らいてうの優生思想[付録編 2]」)。

※2020年12月21日付「TRT」 チリのセバスティアン・ピニェラ大統領が、見知らぬ女性に頼まれて自撮りした写真がネットに出回り、マスクをしていなかったために約36万円の罰金刑になったという記事。世界にはマスクをしていなかっただけで辞任した閣僚も多数いるんだから(「東ヨーロッパで暴れるフーリガン系規制反対派—ポストコロナのプロテスト[35]」)、「辞任すればよかったのに」とも思うのだけれど、マスクをしていたのに、撮影のために外したそうで、あっちにとっては一生の記念ですから、写真を撮るなら外した方がいいでしょう。「チリの憲法改正と教会の焼き討ち—ポストコロナのプロテスト[75]」にチリは「罰則は厳しくても、運用はゆるそう」と書いたのはおそらく正しくて、一緒に写っている女性もマスクをしておらず、後ろにいる人たちもしていないようです。一般にはそんなものですが、決定的な証拠を残していますから、立場上、罰金を払うしかなく、これでも異例に重大な罰を受けたってことです。ピニェラ大統領は大金持ちなので痛くも痒くもないけれど。

 

 

改めて「日本はいい国」と言う

 

vivanon_sentence客観性のない「日本スゲー」は困ったものですが、客観性のない「日本サイテー」も困ったものです。ここはしっかり自覚して維持することを心掛けたいもので、本年、国民の側からその自由を放棄したい情熱が湧き出てきたようにも私は感じています。

国民からのこの情熱はフリーダム・ハウスの数値には出ないのですが、私はここも重要ポイントだと思っています。

「東アジア現象」で死亡者が比較的少ないこと、法的にやろうとしてもできなかったことによるものでしかなく、政治の力ではないことは言うまでもないとしても、現実に起きていることは、ずっと言っているように「日本はいい国」ってことです。そこを押さえないまま、強い国家の強い姿勢を求めることの危険性に気づかせるためにあえて言い続けてます。

 

 

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