松沢呉一のビバノン・ライフ

「分断するな」は多様性を否定する言葉—女の分断・フェミニズムの分断 [7](最終回)-(松沢呉一)-3,359文字-

道徳をフェミニズムで偽装する—女の分断・フェミニズムの分断 [6]」の続きです。

 

 

 

 

自己決定を尊重するのがフェミニストのはず

 

vivanon_sentenceそうとは言い切れない部分があるにせよ、これまでさんざん繰り返してきたように、フェミニズムの根底にあるのは、自己決定の肯定であり、その選択肢の拡大です。個人主義的な考え方が大前提なのです。

だから、初期のフェミニズムでは、それまでの経済によって決定される結婚(日本では主に家の結婚という形をとる)を否定して、個人の選択による結婚を肯定しました。それを担保するのが「愛」ってものであって、これがまた新たな道徳と化していったわけですけど、「愛とは何か」を5人くらいに問えば、人によっていろいろであることくらいわかるはず。よって、「その愛は真実の愛ではない」と他者を否定することはできず、愛を基準にするのだとしても、その判断は個人に委ねられる。「愛」を担保にすると個人主義にならざを得ないのです。

その上で、スウェーデンのエレン・ケイは個人の決定による結婚を完成させるため、「離婚の自由」を獲得しようとしました。日本ではその部分は軽視、無視されて、良妻賢母主義の強化に利用されてしまいました。

これも日本の婦人運動の中では広くは支持されず、産児制限運動を嘲笑する婦人運動家までいたのですが、米国のマーガレット・サンガーやエマ・ゴールドマンは「産まない選択」を拡大するため、産児制限運動に尽力し、投獄されたわけです。

そして、現在、世界各国で、リベラル派のフェミニストは売春の選択を肯定しようとしています。はしたない女という見方を拒絶する。

にもかかわらず、日本で「売春の自由」を求めるフェミニストは少ない。それはいまなお「女はこうあるべし」という女の理想を個人の決定の上に置く発想から逃れられていないからです。こういった発想自体をもエレン・ケイは否定していたんですけどね。

こうして、いまなお良妻賢母から逃れられていない。すなわち道徳から逃れられていない。日本のフェミニズムの主流派は歴史的にずっとそうなんです。

その立場を批判すると、「女を分断するな」「フェミニズムを分断するな」って言う人たちは鈍感すぎます。こういう人たちこそが予め存在してきた分断を固定し、いまなお「一様の女」を死守しようとしているのです。

 

 

「結婚否定・売春肯定」の立場

 

vivanon_sentenceここまで、「結婚肯定・売春否定」「結婚否定・売春否定」「結婚肯定・売春肯定」の立場を説明してきました。

もうひとつの「結婚否定・売春肯定」は社会の視線に対抗する立場です。「芸娼妓たちこそが自由である」と宣言した花園歌子はこのスタンスです。

花園歌子はその後結婚しているので、「結婚肯定・売春肯定」に転じたのかもしれないですが、『闇の女たち』にも多数出て来た「一人の男に依存しないために売春をする」という女たちも、個人の生き方としてそれを実践しています。

戦前からこういう存在がいて、その一例は『売春する女教師—女言葉の一世紀 9』を参照のこと。しかし、これを決して社会は許さない。時に逮捕され、時に報道され、間違いなく蔑視される。

許されるのは、そのことを反省して「貞操を大事にしないとこんなひどい目に遭う。私のような目に遭わないで欲しい」と、汚れていない女たちに警告をすることで、道徳に恭順する姿勢を見せた時です。

※大阪の街を自転車で疾走している時に出くわした銭湯。連日朝6時からやっています。東京にも数軒ありますけど、朝から営業しているのは珍しいです。ホテルを出る時に風呂に入ってきていて、私はそんなに風呂が好きなわけではないので、入りたい気分ではありませんでした。いまさら何を言っているのかって話ですけど、のぼせやすい体質なので、連続で入るほど好きではないのです。しかし、朝からやっていることへの敬意として入ってきました。

 

 

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