松沢呉一のビバノン・ライフ

なくせる差別となくせない差別—心の内務省を抑えろ[21]-(松沢呉一)-3,009文字-

手本はハンJ民—心の内務省を抑えろ[20]」の続きです。

このシリーズは「ネトウヨ春(夏)のBAN祭りからスピンアウトしたものなので、図版がない時は祭りの写真を使っています。

 

 

 

共通の土台がある場合、ない場合

 

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前回書いたように、5ちゃんねるのような匿名掲示板では共通の土台がない。あったとしても互いにわからないので、関連スレッドでは共通されているYouTubeのルールと法律だけに依拠するのが合理的です。

法ではない共通の土台がある場合はその土台のもとで考えを擦り合わせることが可能。しかし、「個人の感情」「個人の感覚」では議論は成立しない。だったら、共通の土台のないところでは法に依拠するのが合理的。

たとえば杉田水脈の原稿(学術論文ではない論文もあるとして、あんなもん、普通は論文と言わないでしょ。なんで論文と言われてんだろ)は制度に関わる問題であり、人権に関わる問題。それを現役の政治家がやらかしたって問題。さらに、自民党という政権党の方針に照らし合わせて批判することも可能。これらは土台を元に議論ができる。

そのことと、たとえば差別的な文脈を伴わない「ホモ」だの「レズ」だの「オカマ」だのといった言葉とを同列には語れないし、それこそ「個人の感情」「個人の感覚」の問題になってしまって、それをぶつけあっても議論になりにくい。

この時に「私は当事者だ」「私の家族が当事者だ」「私の友人が当事者だ」という言葉が力を持つのですけど、「ゲイボーイ」でいじめらた世代の人と、「ホモ」でいじめられた人と、「オネエ」でいじめられた人とがその体験だけをもとに「差別用語か否か」をぶつけあっても解決はしない。「個人の体験」「個人の環境」でも議論は成立しにくいのです。

知り合いなりなんなりの関係においては「その言葉は使わないで」と言い、それを配慮することはあるでしょうが、これは差別かどうかと無関係。相手が嫌がることをしないというマナーの問題。そういう土台のない関係において、統一的な答えを出すのは無理なのだと割切った方がいいのではなかろうか。この時の唯一の基準は法です。

割切った上で、「私はこう考えるので、あなたも従ってはどうか」という提案や意見の擦り合わせはどこまでもできるとして。

 

 

すべての差別をなくすことは可能か?

 

vivanon_sentence法の基準に遠く及ばず、共通の土台がない場面での言葉についてまで文句を言いたがる人たちは、ことによると「すべての差別はなくすべし」「差別につながる偏見までなくすべき」と考えているのではないかと疑います。つまり、どんな小さな差別でも、そこにつならるどんな偏見までもつねに糾弾していいし、糾弾していかなければならないのだと。だから、大きな差別でも小さな差別でも取り組みとしては同じなのだと。

こんなん、幻想です。遠い遠い未来に実現するかもしれない理想として、「すべての差別をなくそう」といったキャッチフレーズを掲げるのはいいとして、現実には今現在すべての差別をなくすことなどできるはずがない。

第一回の東京大行進でも、「すべての差別にNOを」みたいなフレーズを使ってますが、私は「実現不可能な理想」としてそれに合意をしています。キャッチフレーズはそういうもん。

だからと言ってすべての差別が容認されていいはずがないし、容認されているわけでもない。

 

 

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