松沢呉一のビバノン・ライフ

“クィア・エルドラド”ヴァイマル共和国—ナチスと同性愛[3]-(松沢呉一)

レームを首領とする同性愛派閥を擁護したヒトラー—ナチスと同性愛[2]」の続きです。

 

 

 

世界初のゲイ雑誌「Der Eigene

 

vivanon_sentence同性愛者であるエルンスト・レームがこうも堂々と行動していたのは、なにより本人の性格なのでしょうが、社会の空気もおそらく関わっています。

ハルデン=オイレンブルク事件で、100人を超える人たちの名前が公開されているのは、それだけオープンに行動する人たちがいた証拠です。

なにしろ世界初の同性愛雑誌も世界初の同性愛者の権利運動団体もドイツなのです。

世界初のゲイ雑誌は「Der Eigene」です。この雑誌は1896年にベルリンで創刊されていて、30年以上にわたって出し続けられました。下に出したのは1924年の号ですが、創刊は日本で言えば明治29年です。日本が清国と戦争していた頃です。なんという早さ。

発行部数は1,500部程度だったようですが(これは創刊時の部数でしょう)、それにしても当時のドイツがいかに鷹揚だったのかがわかりますし、この雑誌では同性愛自身だけでなく、トーマス・マンのような著名な作家たちも執筆していました(トーマス・マンは1933年にナチス政権樹立とともに亡命)。

発行人のアドルフ・ブラント(Adolf Brand)自身は同性愛者ではなかったのか、両性愛者だったのか、結婚もしていますが、セクシュアル・マイノリティの人権保護を主張する「科学人道委員会」(Wissenschaftlich-humanitäresKomitee)にも参加しており、先駆的出版人であるとともに先駆的活動家でした。思想的にはアナキストで、社会民主党支持だったようです。

英語版Wikipediaよりアドルフ・ブラント(Adolf Brand)

 

 

マグヌス・ヒルシュフェルトの性学研究所と科学人道委員会

 

vivanon_sentenceこの「科学人道委員会」は性科学者のマグヌス・ヒルシュフェルト(Magnus Hirschfeld)が中心になっていたもの。

ヒルシュフェルトは性学研究所(Institut für Sexualwissenschaft)を設立し、19世紀末から性科学を研究し、同性愛やトランスジェンダー、トランスヴェスタイト(異装)もその対象として、データを収集しつつ、それらの人々の相談にも乗り、睾丸摘出手術もやっています。

ヒルシュフェルト自身が同性愛者であったと書かれているものもあって、結婚もしていなかったようですが、ここははっきりとはわからず。

ヒルシュフェルトは1897年に「科学人道委員会」を設立し、刑法175条の撤廃のための活動を開始しています。いかに寛大な社会だったとは言え、ドイツはプロテスタントが強いですから、反同性愛グループからの攻撃、妨害は多く、ヒルシュフェルト自身、襲われて負傷をしています。

アドルフ・ブランドも何度か逮捕されていて、有罪判決も受けてます。1回はカトリック系保守議員だったエルンスト・リーバーを犬用の鞭で殴打した罪、1回は猥褻な文書を書いた罪。前者は懲役刑になった模様。殴った事情は不明。

前回登場したレームのマブダチ、カール=ギュンター・ハイムゾートは科学人道委員会のメンバーだったことがあり、「Der Eigene」にも執筆しています。のちの展開を考えると、この辺の人脈とナチスのレームがつながっていたのがなんとも不思議に思えます。

 

 

画期的ゲイフィルム「Anders als die Andern」

 

vivanon_sentence反発もあったとはいえ、もともと比較的寛大な空気があった上に、ヴィルヘルム2世退陣ののち、1919年、社会民主党・中央党・ドイツ民主党の連立政権が成立、基本的人権を尊重するヴァイマル憲法が制定されて、ヴァイマル共和国(いろんな言い方、表記がありますが、ここでは「ヴァイマル共和国」で統一します)の時代に入ります。

 

 

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