あるドイツ人の生涯(Aus einem deutschen Leben)—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[1]-(松沢呉一)
「処刑現場を見ると卒倒しそうになるヒムラー、人を殺していないヒトラー—人間が悪魔化するとき[下]」の続きです。以降は、あのユニットに書いたことをルドルフ・ヘスの手記から具体的に見ていく趣旨です。
ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』の重さ
ルドルフ・ヘス(Rudolf Höss)著『アウシュヴィッツ収容所』は、訳者(片岡啓治)による前書き、編者であるマルティーン・ブローシャートによる序文を含めて450ページもあって、その厚みだけでなく、内容が重すぎて、たびたび読むのをやめて溜め息をついたり、考え込んだり、気分転換をしたりで、なかなか読み進むことができませんでした。
この手記は1947年4月16日に、アウシュヴィッツの地で絞首刑になったルドルフ・ヘスが、その2ヶ月前に拘置所で執筆したものです。この時、まだ判決は出ていないのですが、死刑になることは既定路線であって、ヘスもそのことを前提に書いています。
そんな状態でよくもこんな大部のものを書けたものですが(本にする段階で削除された箇所があるので、書いたのはもっと多い)、そんな状態だから、せめて自分のことをこの世に残しておきたいと思うものかもしれない。また、やることもたいしてなく、ヘスはこれを書くことで日々過ごすことの平安を得られていたようです。この段階ではヘスの証言は終わり、あとは判決を待つだけ。大要は裁判用にまとめられていて、その上で、裁判では言い切れなかったことを書き残したいと考えたのかもしれません。
収容者であったユダヤ人たちの手記とはまた違う意味で目を逸らしたくなる現実がここには記述されています。その怖さを簡単に説明すると、「普通の人が普通ではなくなる怖さ」です。より正確に言うと、「普通の人が普通の部分を残しながら普通ではないことができてしまう怖さ」です。
「「ネットリンチ」は和製英語に近い—リンチの歴史[11]」で簡単に触れたように、ルドルフ・ヘスはナチスに入党して間もない1923年、ナチスの前から活動していたロスバッハ義勇軍で「リンチ殺人」をやっていて、懲役10年の判決を受けています(恩赦があったため、服役したのは未決囚の拘留を入れて6年)。アウシュヴィッツの所長になるはるか以前から、そんなに普通の人でもないわけですが、手記に書かれているヘスの文章、その文章で表現される心理はいたって普通なのです。
その怖さをさらに言うなら、「自分もこうなるかもしれない怖さ」です。アウシュヴィッツ収容所の所長は、自分とはつながりのない異常者であってくれた方がはるかに楽です。だから、ナチスはしばしば狂人集団として描かれるわけです。しかし、いくら否定してみても、条件が揃えばほとんどの人はヘスやヒムラーになり得るのです。ヒトラーにはなかなかなれないと思いますが。
私の場合は揃う条件が複雑ですが、それでもそうなり得ることがこれを読んでわかりました。
手記は二部に分かれていて、第一部は生い立ちからここまでのいわば半生記です。このすぐあとに処刑されていますから、ほぼ全生記ですが。第二部は短く、いくつかのテーマに沿って書かれたものです。
第一部の締めくくりは、ヘス自身がこの手記の質と世間の人たちの目とを的確に言い表しています。
世人は冷然として、私の中に血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者を見ようとするだろう。—けだし、大衆にとってアウシュヴィッツ司令官は、そのようなものとしてしか想像しえないからである。そして彼らは決して理解しないだろう。その男もまた、心をもつ一人の人間だったこと、彼もまた悪人ではなかったことを。
悪人だとしてもいいのですが、組織によって悪人にされたとも言えて、彼が望んで大量虐殺の指揮をしたわけではないことは信じてよさそうです。
この本がドイツで出たのは1963年。この手記が書かれ、処刑されたのは1947年ですから、16年も経ってます。これを本にすること、あのアウシュヴィッツの所長が、心をもつ一人の人間だったことをドイツ社会が受け入れ、整理できるにはそれだけの時間が必要だったということでしょう。
※本書では、収容されている人々のことを「抑留者」としています。強制収容所は刑務所代わりに使用されたり、拘置所として使用されることもあったようですが、本来は、刑務所でも拘置所でもなく、予防拘禁のために親衛隊が管轄する施設であり、建前としての目的は更正ですから、「抑留者」は正しい翻訳なのでしょうけど、「抑留」はシベリア抑留の印象が強くて、捕虜を留め置くことに限定されてしまいそうです。それも強制収容所の役割ですけど、とくにアウシュヴィッツのようなユダヤ人の最終解決のための絶滅収容所と、「一時的に留め置く」という意味の「抑留」とは大きくずれるので、ここでは「収容者」とします。
あるドイツ人の生涯
編者による序文で知ったのですが、この手記をもとにして、1977年に「あるドイツ人の生涯」(Aus einem deutschen Leben)という映画が作られています。
正規のものかどうかわからないですが、YouTubeにありました。
(残り 1917文字/全文: 4148文字)
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