ナチスを動かしていたのはマゾヒズム—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[12]-(松沢呉一)
「虐殺しながらエホバの証人に理想を見ていたヘス—ルドルフ・ヘス著『アウシュヴィッツ収容所』を読む[11]」の続きです。
ナチスと重なるエホバの証人
エホバの証人の信仰に感動したのはヘスだけではありません。
いろいろな機会に、ヒムラーとアイケは、聖書研究会員のこうした信仰の熱狂性を、くり返し見習うべきものと称揚した。聖書研究会員がエホバに不動の信仰をよせるのと全く同じように、SS隊員はナチズムの理念とアドルフ・ヒトラーを信じねばならぬ、というのである。
全SS隊員が、その世界観の熱狂的な信奉者となった暁には、アドルフ・ヒトラーの国家は永遠に安泰であるだろう。自らの自我を理念のために完全に放棄することを欲する熱狂者によってのみ、一つの世界観は支えられ、永遠に維持されるのである、と。
そして、ルドルフ・ヘスもまたこの通りに、個人の当たり前の感情を捨て、やがてアウシュヴィッツで、連日、数百という単位の収容者を殺害する命令を下すことになります。
ここにおいて、ナチスとエホバの証人の信仰は、表層では対立しつつも、根底でつながっていることに気づきます。
ナチスにおいては、あるいはドイツにおいては、宗教的熱狂と同じ質の熱狂をもつことが望まれていることをヒムラーやアイケは知り尽くしていました。これこそ、ヒトラーが『我が闘争』で宣言していた「大衆に支持される独裁」を成立させる衝動でした。
殺す側と殺される側とで、180度違う立場ながら、両者は同じような崇拝に支配されていました。彼らはそれぞれに一つの世界観のもとで、各々が自我を放棄する社会を希求してました。
全体主義という意味で両者は通じていたのです。しかし、求める世界が違うために、ナチスは彼らを殺されなければなりませんでした。ふたつの「絶対的存在」は両立できないのです。
Wikipediaによると、異端であるエホバの証人がドイツで禁圧された時に、カトリック、プロテスタントともにこれを拍手で迎えたのだそうです。宗教というのはしばしば他宗教、他宗派には冷淡であり、内心、「潰れろ」と願っているものです。それぞれが別の世界観を求める全体主義だからです。
※結婚式場らしい。神の前ではなく、ヒトラーの前で愛を誓う。
ナチスを支えたマゾヒズム
ヘスは早い段階で戦争には勝てないことを悟っていました。収容者に強制労働をさせるべく送り込む軍需工場の視察もしていて、国民向けに喧伝しているような秘密兵器を作れる状況にはなく、兵器を作ろうにも鉄道や橋が空爆で破壊され、資材の輸送もままならないことをわかっていました。戦況の悪化も一般国民の比ではなくわかっていました。確実にドイツは負ける。
だが、最後の勝利を疑うことは、私には許されていなかった。それを信じねばならなかったのだ。たとえ、健全な理性が、これではわれわれは勝利を失うほかないときっぱり私に言い切ったにしても、である。その心は、総統に、その理想に捧げられていた。
信仰ですから、疑うことは許されない。また、疑ったところで、ヘスには何もできることがない。逃げようにも逃げられない。家族を残して一人逃亡すれば家族が辛い目に遭う。戦争に負けることがわかっても、そのまま突き進むしかない中でのヘスの心境は読んでいるこちらも苦しくなるのですが、おそらくその時点でのヘスは諦観とともにある種の高揚を得ていたのだろうと思えます。なにしろ、エホバの証人を理想としていたヘスです。
自分ではやりたくないことをやるのはすべてヒトラーのためであり、祖国のためです。その犠牲になることは彼にとって法悦をもたらす行為です。
自身が書いていたように、彼は鞭打ちを見物して楽しむサディストではありませんでした。しかし、それでも人を殺し、大量殺人を命ずることは、直接的な快楽ではなく、間接的に快楽だったのだろうと思います。やりたくないことだからこそそれが 快になる。自身死にたくはないのだけれど、だからこそ、死をヒトラーや祖国に捧げることに震えるような快がある。この転じ方はマゾヒストのそれです。これもエホバの証人と同じ。
ナチスはしばしばサディズムで説明されますが、それだけでは不充分です。ヒムラーが自身はそうならなかったくせに、親衛隊に死体が積み重なっているのを見てひるまないことを説いていたのはサディズムの完成を求めたのではく、マゾヒズムの完成を求めたのです。
女王様に命じられて、フェラチオをしたり、アナルセックスをすることで、同性愛者ではないのに快に転じることができるのはマゾだからです。女王様の命令がなければそれらはただただ不快ですが、ここでマゾヒズムが機能すると、苦痛であればあるほど大きな快楽になります。
君主のために切腹をする、国のために特攻する人たちを突き動かしていたのはマゾヒズムです。三島由紀夫が夢見たのもこれです。
三島由紀夫の性はこよなく愛したグイド・レーニ画「聖セバスチャンの殉教」に端的に表されます。三島由紀夫はここで表現されたマゾヒズムを生涯追及しました。
(残り 1414文字/全文: 3564文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ