空想と現実が区別できていないのは表現の規制を求める側である—SMの虚構性とその本質[下]-[ビバノン循環湯 546] (松沢呉一)
「抑圧から解放されるための手段—SMの虚構性とその本質[中]」の続きです。
反映されている社会の歪みはそれ自体解消するしかない
この社会にある「男が支配する、女は支配される」という関係をそのままSMに持ち込んで快楽とする人たちは男女ともに存在すると思います。
その一方に、その社会的通念を壊すためにSM的設定を利用する人たちもいます。このどちらなのかは本人の中でも未整理のまま混沌としていることもよくあって、どちらもがその時々に衝動になって自身を駆り立てるようなこともあるでしょう。
また、一般に男性S・女性Mという関係を表現した写真や小説の方が多いのは、「女の裸」を男が消費するという社会の通例がここにも反映されていると言えますが、だからといってこのことをもってそれらの表現が否定されるべきでもない。

これは社会的格差があるためで、競技にも練習にもさほど金のかからないジャンルに才能が集中します。
音楽もそうです。クラシックは金がかかりますが、ジャズやヒップホップであれば安く済む。その範囲でのみ黒人は礼讃されて消費されていきます。
バスケット選手として才能を花開かせるか、ラッパーとして才能を花開かせることが、貧しい階層が成功する数少ない選択肢であることがここに反映されています。
それらの芸能やスポーツが広く人気を集めることによって、「黒人は身体能力が高く、リズム感がいい」というステロタイプな見方を拡散している側面は否定できないかと思います。
この表面的特性は、研究者として活躍する黒人、政治家として活躍する黒人、ジャーナリストとして活躍する黒人、金融業界で活躍する黒人には該当しなかったりしますが、彼らもこういったステロタイプな見方をなおされることそのものが差別であるという主張もあります。それぞれの能力が正当に評価されず、不得意なスポーツや音楽の能力を求められる。
この点ではスポーツ中継は差別を助長するという考え方もできてしまうのですが、だからといってこれらのスポーツや芸能を禁止したってなんの解決にもならず、むしろ選択肢がなおのこと狭まるだけです。
この解決は、ステロタイプな黒人像にそぐわない黒人たちを積極的に取り上げたり、教育の機会を増やすことで選択肢を増やし、社会に残る差別待遇を改善したりすることでなされるべきですし、命を削るスポーツに集中することのリスクを減らすべく、ボクシングでの安全性を高めることも求められていい。
まして、SMはファンタジーの領域ですから、それらがファンタジーであることの強調はいいとして、規制すべきではありません。その上で、SMプレイにも安全性が求められていい。
大貧民禁止という発想
このところ、差別問題にまつわる本を集中的に読んでいたのですが、その中に出てきた話です(すいません、どの本だったかわからなくなってしまいました)。
大貧民というトランプのゲームがありますよね。あれをどっかのPTAだか教育委員会だかが、好ましくないとして禁止にしたそうです。貧乏人をバカにしているということなのでしょう。そんなことを言ったら、「人生ゲーム」だってダメです。ここでの価値観もまた金を得ることを成功とするものですから。この社会にはそういう価値観が現にあって、子どものうちに社会の仕組みを学ぶいい機会になるでしょうに。
それが気に入らないなら、その価値観とは別の価値観のゲームを推奨することで緩衝するのが正しい教育かと思います。そういうことをしたがる人々が今の安定した立場を捨てて、「人生は金ではない」との考え方を実践して、子どもらの手本になるのもいいんじゃないでしょうか。
よく、若い世代の犯罪に対して、「虚構と現実の差がわからなくなっている」みたいな手垢のついた論評をしたがる人がいて、宮台真司らがよく反論してますけど、ポルノ禁圧をしたがるような人々は、虚構と現実の差がわからなくなった人々の最たるものだと感じます。虚構を楽しめるようにするのは、虚構のリテラシーを身につける最適な方法であり、その機会を奪うことは危険です。
(残り 1755文字/全文: 3582文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ