抑圧から解放されるための手段—SMの虚構性とその本質[中]-[ビバノン循環湯 545] (松沢呉一)
「SMを肯定できない人からのメール—SMの虚構性とその本質[上]」の続きです。
34歳がセーラー服を着ても17歳にはなれない
強姦プレイ好きな女性の相手をした男性に対して強姦罪が成立するはずがありませんし、本当に強姦していいわけもありません。プレイとしての強姦と、本当の強姦は似て非なるものです。また、ドラマで殺人者を演じた役者が殺人罪で捕まっていいはずがないように、SMや格闘技を暴力ととらえるのはナンセンスです。
よく聞く話ですが、倦怠期のカップルがいろんなシチュエーションを導入したりするらしいじゃないですか。妻が高校時代に着ていたセーラー服を引っぱり出して、教師と生徒を互いに演じるとか。この時に淫行条例が適用されることはありません。セーラー服を着ることによって、女子高生の表層を借りているだけで、二時の母である34歳の既婚者は処女の女子高生ではありません。法律では、セーラー服を着ているかどうかではなく、現に女子高生であることが問われるのです。
あまりに当たり前すぎることを書いていて、自分でもイヤになってきますけど、これがわかっていない人が現にいるからしょうがない。
実のところ、ファンタジーと現実を混同をするようなイカれた人々が、「女は一人の相手しか愛せない」「女は愛している男としかセックスができない」「女はいろんな男とのセックスを楽しむことができない」「女は商品化されることを望まない」「女が自ら売春することはあり得ない」「SMは女に対する暴力である」といった思い込みを垂れ流し、それによって一層そういった欲望をもつ女性たちが抑圧され、結果、M女を生み出し、強姦プレイの快楽を彩るという皮肉があります。
いい子でいなければいけないとの親の強制が子どもを極端な非行に走らせたり、性の逸脱を加速させたり、そうすることができない子どもが自傷行為や摂食障害に走り、そのためいよいよ子どもに干渉して、関係をこじらせるようなもんですかね。
つまり、SMというプレイに反映されているのは、女性が性をそのまま享受することができない社会の抑圧であり、これこそが暴力です。この暴力から脱するための仮想の暴力がSMです。という見方が可能というだけで、すべてがそうではないですが。
男性であっても、さまざまな抑圧がかかります。「男は女に対して主導しなければならない」といったように、男性には男性の「ねばならない」のプレッシャーがかけられていますから、他者の力を借りて、そこから脱することに快楽を得ることはさほどおかしなことではありません。
この点では、世間一般の望ましき規範に基づいた男女関係にこそ暴力性が潜んでいます。
※Jacobus : Legenda sanctorum aurea, verdeutscht in elsässischer Mundart [u.a.] 1362 Cgm 6 Folio 210
道徳を基盤にした性行動の否定がSMを支えている
家父長制によって強制されてきた「望ましき男女像」からはみ出す欲望を拾い上げるのがSMのひとつの役割であるがために、SM小説でも、そんなことをしそうにない貞淑な女性が陵辱されるというところにダイナミズムがあって、そこに自身の性的興奮を見出す女性たちがいます。
実のところ、SMは社会の道徳が生み出した鬼っ子という側面があるため、とくに古い世代のSMが土台にしている価値観と、多くの売買春否定論者、SM否定論者の性の価値観は通底しています。女性は貞淑でなければならないのです。
(残り 1302文字/全文: 2795文字)
この記事の続きは会員限定です。入会をご検討の方は「ウェブマガジンのご案内」をクリックして内容をご確認ください。
ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。
会員の方は、ログインしてください。
外部サービスアカウントでログイン
Twitterログイン機能終了のお知らせ
Facebookログイン機能終了のお知らせ