「憎悪(ヘイト)行為を支えるのは二分法である」とウェンディ・ロワーは指摘する—ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子[15](最終回)-(松沢呉一)
「女に厳しく、同時に甘かったのはナチスの時代から—ジャパニーズ・サフラジェットとナチスと包茎と田嶋陽子[14]」の続きです。
ナチスと婦人運動の流れ
ナチスは保守であったのか、革新であったのかを一言で言い表すのは困難です。いろんな要因が関わり、いろんな側面があるので、単純化はしにくい。
あえて大雑把にまとめると、ドイツの伝統的規範、あるいはキリスト教に則った規範を大きく揺るがしたのがヴァイマル時代で、フラッパーたちを生み、享楽的文化が花開き、同性愛者やトランスジェンダーたちも生きやすい社会になり、だからこそ反発もされて、ナチスになってすべて潰されます。ナチスは伝統的なフレームを表面的には壊しながらも、その本質には既存の男女の役割が強く残っていました。だから支持されたとも言えます。
ナチスが保守でもあり、革新でもあったことは性の領域において顕著です。アーリア人同士のヘテロ・セックスについては相当に自由。結婚してなくても、不倫であっても、未成年であっても、相手が複数であっても、それ自体は咎められない。戦争中に、かつホロコーストを進めている時に、どうしてああも看守や秘書たちはセックスしてたんだって話です。この範囲では必ずしもヴァイマル文化に反するわけではない。しかし、この根幹にあるのは母性による繁栄であり、そこから外れる性のありようは処罰対象になりました。
単純化してしまうと、敗戦とともにナチスが消えて、ドイツでは自由が復活したように見えますが、ヴァイマル的自由が復活したのではなく、キリスト教が息を吹き返しました。
だから、ヴァイマル時代に撤廃運動が盛り上がったにもかかわらず、ナチス時代に強化された刑法175条は戦後もそのまま残り、ナチスが同性愛者たちに何をしたのかを調べ、公表することさえも長い間困難にしました。その期間が長過ぎて、証言者の多くは沈黙したまま死んでいき、もはや知ることが不可能になってしまった事実も多数あるはずです。
この流れにおいて、フェミニストたちがどういう役割をしたのかについては「ナチスと婦人運動」シリーズを読んでいただきたいのですが、ナチス以前からドイツの婦人運動はクリスチャンを中心とした保守派が牛耳り、英米的な婦人解放・男女同権を目指すのではなく、北欧的な母性保護に傾き、この層はそのままナチス的価値観に吸収されて、女たちの華美な服装や化粧、髪型を封じる役目までを果たします。おそらくフラッパーのような女たちを目の敵にしたものでしょう。
英米的な社会進出を求める考え方はユダヤの思想だとしてナチスによって排斥されますが、残った人々も戦争による人材の需要が拡大したことによって、その実現を求めたはずです。
ドイツのフェミニズムはヴァイマル的な文化とはほとんどかすっておらず、彼女らにとってはフラッパーも売春婦たちもはしたない女たちでしかありませんでした。ナチスの価値観とここは通じているのです。そして、戦後もそうだったのだろうと思えます。
※2013年10月19日付「The New Republic」の書評
ドイツと日本の「犠牲者化」
ドイツにおける婦人運動の流れと、ウェンディ・ロワーが指摘する戦後の「犠牲者化」は日本ときれいに重なります。
戦後、「戦争をやったのは男たちであり、女はただの犠牲者である」といった言説によって、矯風会から始まる慰問袋の活動を全国に拡大し、日の丸を振って夫や息子を戦地に喜んで送り出し、女たちのオシャレを封じ、婦人運動家が女子挺身隊を提案するなどして戦争に加担していった歴史は忘れられ、「意思ある反逆者たち」であった焼け跡のパンパンたちも犠牲者としてとらえられていきます。パンパンたちを道徳や秩序の犠牲者にしたのは、矯風会や神近市子であったにもかかわらず。
戦中、矯風会や婦人運動がやったことを彼ら自身が隠蔽していったとも言えます。加害者の被害者偽装です。
これらは女の主体性の否定であり、「女はかよわき人形である」という社会の思い込みをなぞり、固定していく発想でした。
呆れたことに、こういう発想をいまなお続けている自称フェミニストがいかに多いことか。田嶋陽子もその類いだと私は見ています。
女の特性は狩りではなく農業に向き、争いを好まず、出産をすることが責務であるかのような物言いだけじゃなく、「女は奴隷である」という一律の基準ですべてを見ようとする姿勢も「犠牲化」を導きます。基準がひとつなのです。犠牲者・被害者をそう扱うのは当然。しかし、女にも加害者・共犯者・加担者・協力者がいるし、傍観者もいます。
にもかかわらず、「女は奴隷でしかない」という見方をする。であれば、戦争協力したのも強いられてでしかない。かくして市川房枝は婦人参政権を推進したというところだけで主体性を認められて、戦争協力したこと、戦後も反省していなかったことは見えなくなり、ただの偉い人として扱われ続けています。
これがジャパニーズ・サフラジェットだってか。
※トルコ語版『Hitler’in Sirret Kadinlari』
二分法だけで判断するから見誤る
ウェンディ・ロワーは、研究者たちの蓄積を踏まえて、憎悪(ヘイト)行為を支えるのは「二分法」であると指摘しています。
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