ナチス・ドイツにおける新聞・雑誌の抵抗はどこまで抵抗だったのか—ゲッベルスは天才[2]-(松沢呉一)
「ゲッベルスの名言「嘘も百回言えば真実になる」自体が嘘、「本当はこう言った」もまた嘘—ゲッベルスは天才[1]」の続きです。
ナチス・ドイツにおけるジャーナリストたちの「抵抗」
セバスチャン・ハフナー著『ナチスとのわが闘争——あるドイツ人の回想1914-1933』には、ナチスドイツでのメディア状況が少し書かれていました。
それまでリベラルだったメディアは国会議事堂放火事件を境に一変し、多くは沈黙し、あるいはナチスのメディアと同様のものと化していく中、わずかには抵抗と言えるものがあって、複数の定期刊行物を出す新聞社は、ひとつはナチス広報紙として譲り渡し、ひとつは少しはましなメディアとしてギリギリ残したり、チェックの厳しい政治面や社会面に比して、文芸面では批判的とも読める記事が掲載されたり。
ハフナーはこれを抵抗の表れであり、救いとして受け取っていたのだと思え、その側面もないわけではないながら、メディアを買いかぶりすぎていたかもしれない。
ノルベルト・フライ/ヨハネス・シュミッツ著『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』にハフナーの記述を裏付けるような話が出ています。しかし、宣伝省はハフナーが考えていた以上にしたたかでした。
1617年に創刊された歴史あるベルリンの新聞である「フォス新聞」は1933年1月30日にヒトラー政権樹立の翌日に社説を出します。
権力は、この世から貧困を廃絶することはできないかもしれないが、自由を廃絶することならできる。苦難の発生をは禁止することはできないが、新聞の発行を禁止することはできる。飢餓は追放できなくても、ユダヤ人なら追放できる。憲法は、そうした権力の最悪の乱用に歯止めをかけているが、残念ながらその拘束力は、ゲッベルスお得意の悪態を借用するならば、『実にとるに足らない』ものなのである。
最後の抵抗。これはわずかな例外であって、大多数のメディアはヒトラー政権樹立を肯定的にとらえ、せいぜいのところ、「ヒトラー政権は失敗に終わる」と楽観的な論調だったといいます。
現実にはナチスに反対するようなメディアやジャーナリストの時代はあっさり終わって、「フォス新聞」は翌年3月に廃刊に追い込まれています。
文芸雑誌、文芸欄の「抵抗」
「フォス新聞」の創刊時の正式名は「Königlich Privilegirte Berlinische Zeitung von Staats- und Schehrten Dinge」で、時期によって新聞名が変わったようですが、通称「Die Vossische」または「Aunt Voss」。17世紀に創刊されたベルリンでもっとも古い新聞で、リベラル派の代表的存在でした。
昨今、「リベラル」を左翼の意味で使用する人たちが増えてしまって、共産党までをリベラルとする例が出てきているため、「リベラル」という用語が誤解されそうですが、ソビエト直結の共産党がリベラルのはずがなく、この場合のリベラル系の新聞は「ブルジョア新聞」と言い換えてもよく、本書でもそういう表現をしています。政党で言えば国家人民党の一部から中央党、社会民主党まで。
こういった目障りなメディアは潰す。あるいは目障りな編集者や記者は追放する。とくにひどいのは強制収容所に送り込み、ユダヤ人はユダヤ人というだけで追放していくわけですが、それでも抵抗と見えるような記事も出ます。
たとえば文芸欄について『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』はこう説明します。
言論の「抵抗」が語られる場合、新聞の文芸欄や文芸付録、あるいはルドルフ・ペッヒェルの『ドイツ評論』(ドイッチェ・ルントシャウ)やペーター・ズーアカンプの『新評論』(ノイエ・ルントシャウ)のような文化問題や文学を論ずる雑誌が引き合いに出されるのが多いのは、特徴的なことである。政治報道が厳重な統制下で、取り扱うべきテーマが事前に指定され、新聞が公式発表に手を入れるのを一切許されなくなっていたのに比べると、文化の領域では当局からの用語規制や掲載禁止命令に拘束されないテーマを取り上げる可能性が残されていた。そして、ある程度の才能と、明確な目的意識を持った編集者なら、ジャーナリスティックな偽装をほどこした記事を書く余地があった。
「抵抗」はカッコつきであることに留意のこと。
(残り 1613文字/全文: 3472文字)
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