津田大介のメディアの現場

vol.108_1.17から3.11へ――負の記憶を遺し、伝えることで風化と戦う《part.1》

1.17から3.11へ――負の記憶を遺し、伝えることで風化と戦う《part.1》


1995年1月17日午前5時46分に発生し、兵庫県南部地震に起因した阪神・淡路大震災から丸19年。そして、2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震によって引き起こされ、東北から関東地方にかけての東日本一帯に甚大な被害をもたらした東日本大震災からもうすぐ丸3年。昨年発売された『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』に寄稿したルポで、「我々が本質的に戦わなければならない敵――ヤツの名は『風化』だ」と書きました。広島も、長崎も、神戸も、福島も、大きな災厄に見舞われた当事者は常に負の記憶を遺すこと、遺さないことについて考えます。負の記憶をきちんと後世に伝えなければ、人は同じ過ちを繰り返すものです。しかし、人はそれが辛い記憶であればあるほど、そこから目を背け、早く忘れたいと思ってしまうものでもあります。そして、時間が経てば経つほど、当事者の生々しい記憶や証言は消えていき、記憶の風化が進んでいく。昨年4月に行ったチェルノブイリ取材でもっとも印象に残ったのは、負の記憶を遺すため、風化と戦い続けているウクライナ人たちの姿勢でした。翻って日本はといえば、まだ東日本大震災から3年しか経っていないのに、震災関連、とりわけ福島のニュースが話題に上ることは日増しに少なくなってきています。「伝える」ことを生業としている自分が、このような状況に対してできることは何なのか。そのことを改めて自分に問い直す意味も込めて、「風化」をテーマにしたシリーズ企画を始めることにしました。本号の発行日1月17日は阪神・淡路大震災の発生日です。今号から東日本大震災が発生した3月11日まで「負の記憶を遺し、伝えることで風化と戦う」というテーマについて、さまざまな角度から記事を作っていきます。この2カ月間、僕と一緒に「風化」という重く、難しい問題について考えていただければ幸いです。

シリーズ企画第2回となる今回、part.1では「震災遺構」をテーマに取り上げます。東日本大震災の被災地では、震災による被害――とりわけ津波の恐ろしさを後世に伝えるために、被害のあった建造物を「震災遺構」として保存すべきか解体すべきかをめぐり、町を二分するような事態が起こっています。津波によって宮城県気仙沼市の市街地に打ち上げられた大型漁船「第十八共徳丸」[1]や 、宮城県南三陸町の防災対策庁舎 [2] のように、これまで被災地の「象徴」とされていた遺構の解体が決定され、わずかに残された震災遺構をどうしていくべきか、各自治体が岐路に立たされています。震災の当事者にとっては被災時のつらい記憶を思い出させるものであるうえ、修復と保存に莫大な費用がかかる震災遺構。復興の妨げになるとして撤去を求める声があがる一方、震災の教訓を後世に伝えるためにはどうしても必要だという声もあり、苦渋の決断を迫られるケースが相次いでいます。遺すべきか、壊すべきか。阪神・淡路大震災の被災地で住民による保存活動が起こった「神戸の壁」に注目し、そこから見えてくるものについて考えたいと思います。


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