「ホモ」を差別用語にするな—心の内務省を抑えろ[6](松沢呉一)-2,327文字-
「エスキモーとイヌイット—心の内務省を抑えろ[5]」の続きです。
「ホモ」を否定されて傷つく人たちを無視する発想
傷つく人、不快になる人々を根拠にして「差別用語」の扱いになりつつあるのが「ホモ」です。そのため、「ホモ」を使用する場合、毎度のように注釈を入れるのが面倒でしょうがない。文脈で判断する人たちばかりであれば、こんな注はいらないし、そもそも「ホモは差別用語だ」なんてことにならない。
創刊間もない時期の「薔薇族」を読むとわかりますが、丸山明宏などを契機にして「ゲイボーイ」という言葉が広く社会に浸透し、同タイトルの本も出版され、同性愛者を広く「ゲイボーイ」と呼称するようになったことへの反発から、「ホモ」を自称する動きが起きます。中性的な存在を意味する「ゲイボーイ」とは違う自分らを指す言葉としてホモ宣言をしているのです。
東郷健は早くから、同性愛者を「ゲイ」と呼んでいて、この「ゲイ」はもともと「ゲイボーイ」のゲイだろうと思いますが、「ゲイボーイ」を略した「ゲイ」という言い方はそれまでにもありながら(一例は「SMという言葉が定着するまでのワード—アブチック・悦虐・責・耽奇」を参照のこと)、同性愛者全般を「ゲイ」と呼ぶ用法を日本で広げた、少なくとも「ゲイボーイ」の時代から維持し続けた最大の貢献者は東郷健かもしれない(詳しくは次々回)。
しかし、「ゲイ」が一般的になるのは1990年代に入ってからでしょう。四半世紀ほどの間、男性同性愛者は「ホモ」「ホモセクシャル」が主流だったわけです。
「ホモ」が蔑称として使用されることは今以上に多かったでしょうけど、この世代にとって、自認の言葉は今も「ホモ」です。自認の言葉をそう簡単には捨てられるものではなく、「ホモは差別用語だ」という決めつけは自身の存在を否定するものであり、自身を威嚇する決めつけです。
その世代のことを書くのに「ゲイ」はあまり適切とは言えない。まして、その時代の人たち自身が使う「ホモ」を「ゲイ」に置き換えることは不当であり、失礼です。その注釈をいちいち入れるのが面倒なので、差別用語だと騒ぐ前に、こういった経緯を把握して欲しい。
※画像は古本屋さんから借りました。古い「薔薇族」なんて安く手に入るんだから、一回読んどけ。古い世代が「ゲイボーイ」を嫌ったのは「女っぽい同性愛者」に対する嫌悪だけでなく、女性に対する嫌悪も関わっているのがまたややこしくて、これについては次回以降を参照のこと。
次は「ゲイ」を差別用語にするしかなくなる
この世代の人たちは若くてもすでに50代である上に、公に発言する人たちはもともと少ない世代ですけど、それにしたって、今もなお生きている人々のことを想像もしないまま、「ホモは差別用語だ」と断定できる人々の鈍感さにはむかつきます。
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