松沢呉一のビバノン・ライフ

伝説のオカマ・東郷健—心の内務省を抑えろ[8](松沢呉一)-2,340文字-

言葉を封じても解決にならない—心の内務省を抑えろ[7]」の続きです。

 

 

 

蔑称を肯定的に使用する

 

vivanon_sentence前回見たように言葉を封じることで、時に蔑称、罵倒語として言葉を完成させてしまうことがあります。また、差別をなくしたいのではなく、その言葉が指し示す人々を見たくない人たち、つまりは蔑視をしている人たちが言葉を封じようとするケースもあり得ます。そして、そのテーマそのものをタブーとしてしまって、論じることもできない事態を招きます。

言葉を封じることはどの意味においても効果が疑わしい。

そこで、肯定的に使うことで、言葉の強度を弱めるという闘い方が出てきます。「クィア」がその例です。完全なイコールではないですが、蔑称として使用されることがある俗語という点では。日本語の「オカマ」に近い言葉です。

現に英語圏では「クィア」という言葉を向けられて傷ついた人もいるでしょう。「傷つくので使うな」と文句を言う人もいるでしょう。しかし、それでも肯定的に使用することで、蔑称としての強度を弱める。

1980年代にこの言葉を肯定的に使用する動きが米国で始まり、日本では1990年代末に、「クィア」を肯定的に使用する動きが出てきますが、日本語ではそもそもクィアという言葉が浸透してませんから、その変換の動きがリアルにはわからず、ここでは「オカマ」を使うべきだったのではないかとも思います。

日本では肯定的な言葉に転ずるだけの力がなかったかもしれず、その意志を持てる層が薄過ぎたかもしれませんが(今でもそうでしょう)、否定的ニュアンスの言葉を肯定的に転ずる意義を実感することができなかったことはあまりに惜しい。この経験があれば、「差別用語だ」と決めつけることに少しは抵抗が生ずるようになったのではなかろうか。

※まだ一部の人しか知らなかったクィアの動きを取り入れたのが伏見憲明編集の「クィア・ジャパン」でした。

 

 

「クィア」を手本に

 

vivanon_sentenceこのように、私は言葉を封じるのでなく、肯定的に使用していく手法に共感があります。つねにそれが可能だとは思わず、肯定的に使う側が、否定的に使う側より力をもっていることがひとつの条件になりましょうし、だとしても、どんな言葉にも適用可能とは思わないですけど、日本でもそのような例がないわけではなくて、「芸人」を使わせない方向ではなく、積極的に使うことで「差別用語」から外した例も存在します。

 

 

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