松沢呉一のビバノン・ライフ

裸祭りの「事故チンコ」とサンバダンサーの「事故乳首」—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[8]-(松沢呉一)

Facebookの振り見て我が国直せ—そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?[7]」の続きです。

 

 

 

日本の強固な「裸の文脈」は「祭り文脈」

 

vivanon_sentence考えてみると、おかしなもんですわね。

江戸時代は公衆浴場の混浴が当たり前で、「京の女の立小便」と言われるように、京都などでは女も公道で立ちションしていたのに、明治以降、それらは野蛮だと封じられます。追いつけ追い越せで、やっと西欧に追いついたと思ったら、日本の春画があっちでは芸術とされ、それを生み出した日本ではおおっぴらには展示も販売もできなくなってました。公然と展示されるようになったのは最近ですよ。

しかし、法律が変わったわけではなくて、公然わいせつやわいせつ物頒布で表現が規制されたまま、FacebookのようなSNSでは足を引っ張る存在になってしまっています。

元に戻せばいいと言っても、そう簡単にはいかない。たとえばスペンサー・チュニックの撮影が可能になるように法律を変えようとすると、間違いなく強い抵抗があるでしょう。「子どもが見たらどうするのか」「海外では許されない(笑)」など。

私自身は法改正に賛成ですが、この点については積極的に賛成する気もない。「アートの文脈」「ナチュリズムの文脈」「抗議の文脈」のどれも根づいていない日本では法の運用が難しすぎます。国民も警察も、それらの文脈を読む能力が必要になり、それが浸透するには数十年かかります。

公衆浴場がない文化圏の人は銭湯やサウナ、温泉に抵抗があって、猥褻であり、不潔であると感じることもありましょう。大多数の日本国民はそう感じないで済んでいるのは歴史的に蓄積された文脈があるからで、羞恥心や猥褻なんてものは文化的に作られたものですし、時には法的に作られます。

今のところ少数派ではあれ、日本人でも、公衆浴場やホテルの共同浴場は恥ずかしい、あるいは不潔と感じる人たちもいます。銭湯が消えつつあるため、今後はいよいよ増えていき、そのうち、「子どもが入ったらどうする」「海外では許されない」と公衆浴場禁止勢力が出てくるかもしれない。

公衆浴場文脈」は、閉鎖空間での裸であり、異性の裸は見えないので別とすると(辛うじて混浴も残ってますが、明治時代に禁止され、以降は黙認されているだけです)、日本に根づいている公共の場での裸は「祭り文脈」です。

「裸祭り」ってくらいで、祭りに裸はつきものです。岩手県の蘇民祭のように、全裸もあります。最初から全裸でいいことになっているのではなく、もみくちゃになっているうちにふんどしがとれて、最後は全裸ってことですから、いわば「事故全裸」「事故チンコ」ですが、毎回必ず事故が起きることになってます。地元の人にとってはそういうもん、警察だってそれを摘発したりしない。この祭りの文脈は伝統を背景にして理解が容易なので、誰も猥褻だとは感じない。

ただ、これも後退してきていて、JR東日本は「セクハラ」として、2008年、蘇民祭のポスター掲示を拒否しました。こちらの記事を参照のこと。もちろん、こんなもんがセクハラになるはずがない。

ポスター上部のふんどしの人々は「事故全裸」で、あとでふんどしを描き加えたものだと記事にあります。たしかに白さが浮いてます。そこは配慮していますが、問題になったのは手前の人物のよう。よく見ると、乳首が半分出ていますが、乳首を見えなくしてもインパクトは同じだったでしょう。インパクトがあるのがいいポスターですが、インパクトがありすぎて掲示不可。

 

 

個人の存在を否定してしまう「拡大セクハラ」

 

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たしかに不快感を与えるかもしれないけれど、人の容貌が不快感を与えるからって掲示できないってひどくないですか。不快なものはなんでも「セクハラ」にして葬る社会は、個人の否定まで行きつきました。

記事では「銭湯や温泉がある日本でも、公衆の面前で裸になることはますますタブーになりつつある」とされていますが、女の裸とともに男の裸までがダメになってきているのでなくて、この人個人がダメになってきているだけでしょう。「彼が公衆の面前に出ることはますますタブーになりつつある」ってことです。ひどいっす。

事実、プロレスのポスターや、プール・海水浴場のポスターで男が上半身になり、乳首を出していたところでJR東日本は掲示拒否はしない。乳首や男の裸が問題ではないのです。レスリングの選手は脇毛まで剃ることになっているそうですが、プロレスラーだと胸毛が生えたのはいますから、胸毛一般が掲示拒否されるわけでもない。

全裸だった古代オリンピック以来の「スポーツ文脈」は国際的に強く、とても電車には乗れない半裸のコスチュームで競技するスポーツは多いものです。その文脈の強度で、プロレスラーだったら、彼はポスターに出られるのではなかろうか。「祭り文脈」より「スポーツ文脈」の方が強い。世界が味方についてますから。

そうは見えないですが、この件はスペンサー・チュニックとFacebookの関係にも似ています。彼が祭りに参加することは許される。しかし、それを表現した写真は許されない。駅構内での掲示ですから、SNSとはまた違いますが、蘇民祭のポスターをFacebookに出したら、クレームが殺到して、削除されかねない。やってみよ。

 

 

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