松沢呉一のビバノン・ライフ

ゲッベルスはメディアに娯楽性や多様性を求めた—ゲッベルスは天才[3]-(松沢呉一)

ナチス・ドイツにおける新聞・雑誌の抵抗はどこまで抵抗だったのか—ゲッベルスは天才[2]」の続きです。

 

 

 

ガス抜きも宣伝省がコントロールしていた

 

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ヒトラー政権が樹立されるとともに、それまでヒトラーやナチスを批判し、嘲笑してきたリベラル系のメディアは、一気に弾圧され、左翼はもちろん反抗的リベラリストも更迭され、社を追われ、ある者は収容所に送られ、ある者は国外に脱出し、後釜にはナチスにおもねる人々や党から送り込まれた人物が就き、会社はナチス系企業に傘下に組み入れられて、御用新聞となっていきます。

こうしてメディアはナチ化が進んでいきます。その中でもわずかに抵抗と言える記事が掲載されることもありましたが、ノルベルト・フライ/ヨハネス・シュミッツ著『ヒトラー独裁下のジャーナリストたちはこう説明します。

 

 

だからといって、体制側がそれに気付いていなかった、などということはない。むしろ体制側がそうした「精神的抵抗運動」——最近の歴史記述では過大評価されがちだが——を意図的に放任しておいたように思われる。小グループが発行する宗教雑誌や、『ドイツ評論』(ドイチェ・モントシャウ)のような反体制的な文芸評論雑誌を放任したのは、それほど過激ではないと判断した反体制派の潜在的エネルギーを「貯水池」に誘導して、そこで警察のコントロール下に置いて常時、念入りに監視するためだったのである。その結果、宗教的あるいは市民教養的な枠を逸脱する危険がないと判定されれば、廃刊の対象にならせないどころか、「ガス抜き作用」をもつメディアとして、体制側には有用な存在と見なされた。

 

 

すべて宣伝省の計算の上での「抵抗」だったのです。一部のメディアは放任して、そこに出入りする人々をチェックする。行き過ぎると潰す。ガス抜きさえもコントロールされていました。

あくまで『ヒトラー独裁下のジャーナリストたち』の著者の見解であり、私には判断できないですが、あれだけ思想統制に敏感だったナチス・ドイツにおいて、妙にゆるく見えること(具体的には以降見ていきます)が多々あるのは事実であり、これはゲッベルスの深慮だったとしか思えない。

「ドイツ評論」1941年 もとは綴じられた雑誌の形式だったようですが、この頃は新聞形式

 

 

一律の報道では誰も読まない

 

vivanon_sentenceゲッベルスは一律の規制をするのではなく、メディアに多様性をしつこく求めました。んなこと言っても、やりすぎると捕まえて新聞や雑誌を潰し、書いた人間を強制収容所に入れるくせに、「勝手なことを言いやがって」って感じですが、どれもこれも同じになってはプロパガンダの効力がなくなるという考え方は正しい。

ゲッベルスは大衆がどう動くのか見据えていて、たとえばナチスの官製メディアが建前上の公式発表を垂れ流し、一方で娯楽性が高く、少しは幅のある報道をしている時に、大衆は前者との比較として、後者を信頼します。この時の信頼は全幅の信頼となって、批判的な視点は消えるのです。そこまでをコントロールしようとしてました。

これは私がよく言う「選択肢思考」に通じます。ゲッベルスの嘘も百回言えば真実になる」という虚構の名言も、「本当は」とデマの全文を示されるとまた信じてしまうのもこれ。提示されたものからしか正解を探そうとしない人々の習性を踏まえています。

連合国側の国民も、「ナチスはひどい、悪魔だ」という前提があると、連合軍を無条件の正義としてとらえ、連合軍の問題点には目をつぶる。アウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人の書いたものは「絶対的被害者」のものとして疑わず、そこにある誤謬や瑕疵には気づけなくなります。

Wikipediaより、ゲッベルスの命によってプロパガンダをより徹底するために安価で販売された「国民ラジオ」

 

 

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