結局のところ、中途半端なフェミニスト—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[15](最終回)-(松沢呉一)
「奴隷という自己規定で楽になれる人々に向けた「星占いフェミニズム」—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[14]」の続きです。
まとめ
長々と田嶋陽子著『愛という名の支配』について見てきました。もともとうまくまとめることができなかったものを気分でだらだら出したので、散漫なものになってしまいましたが、私が言っていることは一貫しています(と自分では思ってます)。
対して田嶋陽子の思想は全体の根底にあるべき軸がない、少なくとも弱い。その場その場で、田島陽子にとって都合がいいものです。だから田嶋陽子のフェミニズムは本人が表現するように「私のフェミニズム」です。その範囲では機能しています。
すでに説明したように、この本の欠陥は、「私のフェミニズム」をそのまま社会に拡大したことにあります。「私の事情」と「社会の事情」は違います。
フェミニズムにおける個人主義の意義を理解しているはずなのに個人主義に徹することができていないのも、一貫性のなさを表していましょう。田嶋陽子の主張は「こっちでこう言い、あっちでああ言い」が多いのです。同じ調査の都合のいい数字を拾うこともそうですし、アマゾネスを出しながら、そのことをなかったように、女は平和的と言いたがるのもそうです。
ある部分から見れば正しい点はあります。だから私も単行本の段階ではある部分から見ていい本だと思ってしまいました。しかし、他の視点から見ると、「あれれ?」という点が目につきます。
また、あるテーマについてのツッコミが足りない。田嶋陽子自身、考えぬいていないのだろうと思えます。
本書では売春という言葉は一カ所だけ出てきますが、シャドウワークの流れで出てくるだけで、深く論及はしてません。おそらくこれは1991年に邦訳が出ているダラ・コスタの『愛の労働』あたりの議論を踏まえたものかと思います。セックスもシャドウワークなのだと。その程度の指摘はあるのですが、その程度で終わりです。
ここはないものねだりでしかないかもしれないですが、奴隷制の船艙は二重三重になっていて、最下層には、田嶋陽子が言うところの奴隷たちからも蔑視されるアバズレたちがいます。売春したり、不倫したり、ポルノに出たり、ポルノを楽しんだり、乱交したり。
そこに対する視点がないのです。
ポルノの見方もステロタイプ
このところ、「ビバノン」ではポルノの話をよく書いているので(これを書いている頃、「そろそろ刑法174条(公然わいせつ)と175条(わいせつ物頒布)を見直しませんか?」シリーズをやっていた)、その部分にも触れておきましょう。
(略)この高度産業・資本主義社会で働きバチと言われるくらいよく働く男たちが、忙しい時間の合間をぬって性的快楽をえたいとしたらどうすればいいか。てっとり早く興奮できるための道具が必要になり、ポルノがはやります。また、てっとり早いセックスといえどもそれなりに人間関係は必要ですから、てっとり早く関係のつくれるノウハウやマニュアルが必要になります。それなら、こういった便利なマニュアル文化やポルノ文化があるところで、男は性的にも人間的にも自由なのでしょうか。自由どころか、逆に、そういった文化のなかでは、男の人たちもまた索漠とした気持ちを抱いているのではないでしょうか。
最初っから最後までダメダメな文章です。高度産業・資本主義社会なんてものができる前からポルノはありました。春画はどうなる。
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