松沢呉一のビバノン・ライフ

ここに至ってなお「女の役割論」を維持しようとする不可解さ—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[6]-(松沢呉一)

どうしても男女の構造を船に喩えるなら、今の時代は客船—田嶋陽子著『愛という名の支配』を褒めたり貶したり貶したり[5]」の続きです。

 

 

 

差異主義者たちの主張

 

vivanon_sentence複数の要因がからむ事象に対して、性別だけを取り出してグルーピングし、安直な数字的平等を実現するのがクオータ制です。だからこそ、普遍主義の立場をとるフェミニストたちはこれに反対し続けています。「クオータ制に反対するフェミニストたち—日本の女性議員率 15」を参照のこと。また、差異主義と普遍主義の考え方の違いについては「市民に性差はあるのか?—しつこくクオータ制を批判する[上]」以下を参照こと。

リンク先を読んでいただけるとわかるように、ヨーロッパの多くの国でなにかしらのクオータ制を採用している国が多いのは、数十年にわたって普遍主義の政策をとってきてもなお議員数は男女等しくならないことに対して、「やはり男と女は違うのだ」というある種の諦観から出てきた政策だったと言うことができましょう。

普遍主義の追求が十分になされていないこの日本において、クオータ制を導入しようとするのは無謀であり、「女はやはり政治に向いていない。家事に向いているのだ」という考え方をただただ加速しかねない。「女は〜である」という思い込みを固定する結果になるのは必至です。

日本でクオータ制導入を図る人たち自身がすでにそう思っているのではないかと疑います。「女は本当は政治に向いてないけど、数合わせはしよう」と。つまり、普遍主義を経た果ての差異主義なのでなく、ただの家父長制に基づいた女の役割論を延長したまま、数字的平等でごまかそうとしているように見えます。

改めて確認しておきますが、田嶋陽子がクオータ制についてどう考えているのか、この本ではわかりません。しかし、おそらく賛成するのではないか。そう思う根拠はあります。

Mattia Preti, Tomyris Receiving the Head of Cyrus, 1670–72 ペルシア軍を打ち負かしたマッサゲタイの女王トミュリス。私はすでに「男は〜」「女は〜」という規範についてはすべて不要な時代になっていると思うのですが、田嶋陽子さんはどうせやるなら、こういう人物をとらえて「女は戦闘的で強いのだ」と言えばまだしもよかったのに。

 

 

根拠なき田嶋陽子の夢想

 

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田嶋陽子はこんなことを書いています。

 

もしかしたら、むかしむかし、男は男だけで、女は女だけでべつべつに住んでいたのではないか(ギリシア神話のなかのアマゾネスは女だけで国をつくっていたというし、このアマゾン伝説は、インドなどほかの国にもあると言われています。実際に今でも中国には女だけで暮らしている部族がいるし、アフリカでは男だけで暮らしている人たちがいます)。そこでは、男は男同士、女は女同士で愛し合っていたのではないか。

(略)

女の国の女たちは、いのちを産むからいのちを大事にして、おそらく生活も農耕主体で、あまり殺生もしないで生きていたのではないか。男の国に比べて金持ちではないけれども、平等で、暴力もなく、みんなゆるやかなサイクルでゆったり生活していたのではないかと考えます。

 

田嶋陽子の言っていることは個別には賛同できるところが多数あるのですが、一方でこういうことを書いてしまうから腰砕けになります。枝葉末節ならいいのですが、見逃せない箇所でこういうことを書いてしまってます。データのいいとこどりや「奴隷船モデル」と同じく重要な記述です。

問題点はふたつ。ひとつは「事実」として適当すぎるってことです。女性学では許されるらしいですが、こんなん、歴史なり民俗学なり人類学の分野ではまったく話にならんでしょう(という書き方は女性学の研究者に失礼ですね。まがりなりにも研究者だった人の文章としては、軽いエッセイとしてもいかがなものかと思わないではいられません)。

 

 

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