【高校】佐久長聖 大内康至・次期監督インタビュー 伝統守り、高大指導の経験生かす
佐久長聖高校の藤原弘介監督の退任を受け、大正大前監督の大内康至さん(44)=東京=が4月1日、監督に就任する。西の名門・PL学園出身の藤原監督に対し、大内さんは東の名門・日大三高の出身。戦国東都と呼ばれるハイレベルな大学リーグでしのぎを削ってきた大内さんは、春夏通算10度甲子園出場の佐久長聖でどのように舵を取るのか。就任への思いやチームづくりについてインタビューした。
↓ インタビューに応じる佐久長聖次期監督の大内さん
<おおうち・やすゆき>
1980年4月25日、東京都八王子市出身。日大三高(西東京)では2年春に小倉全由前監督(現高校日本代表監督)が就任。3年夏は背番号10の右投げ投手として西東京大会8強。大正大(東都リーグ3部)で23勝。在学中、リーグ戦のない期間は母校日大三の練習に参加し、01年に同校が初めて全国制覇した際、打撃投手で投げまくり強力打線に貢献した。卒業後、北海道出身の日大三OBの紹介で白樺学園(北北海道、芽室町)に赴任。12年間勤務し、06と11年夏に部長として甲子園出場。最後の半年、監督を務めた。その後、当時3部だった母校大正大の監督に就き、8年間で2度2部に昇格した。八王子の実家に妻と子ども2人を残し、長聖の学生寮に単身赴任。地理歴史科教諭。
―長野県と縁はあったか
大内さん(以下大内) 個人的にはないと思っていましたが、佐久長聖に採用していただくことになってから身の回りで長野出身だという方をあらためて知り、それこそ妻の父親の一族が飯田方面の出身だとも聞きました。
―長聖監督の打診を受けて
大内 当時、大学の監督をしていましたが、本音で「自分なんかじゃ」みたいな、雲の上の存在の学校だったので正直びっくりしました。
―引き受けた決め手は
大内 私は北海道で高校野球を12年やらせていただき、その後8年間、大学野球に携わりましたが、どこかで高校野球の魅力を感じていました。もちろん大学野球もやりがいがあり、すごく充実した日々でしたが、声を掛けていただき、正直、高校野球という舞台に燃え上がるものが消せなくなってしまった心境でした。
―佐久長聖とはこれまで縁があったか
大内 長聖高校は甲子園常連のイメージはありましたし、藤原監督は自分の中では画面上の方という印象でした。ご縁で言うと、藤原監督がPL学園監督で前田健太投手が1年生で出場された時に初戦で日大三と当たったのをテレビで見ていました。三高OBからするとPLに勝ったので、これで全国優勝行けるかなって思ったら、自分は北海道(白樺学園部長)にいましたが、次戦で駒大苫小牧に敗れ、駒苫がそのまま優勝しました。ですからPL戦の印象がすごく残っています。現役時代からミーティングで小倉監督からPLの話は随所に出ていました。
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