松沢呉一のビバノン・ライフ

売春を照らす小説-マイク・モラスキー編『街娼』 4-(松沢呉一) -6,253文字-

パンパンとオンリーを描いた小説集-マイク・モラスキー編『街娼』 3」の続きです。

 

 

 

 

『街娼』収録作品紹介の続き

 

vivanon_sentence残りの3本を紹介してから、総論に入ります。前回同様、これからマイク・モラスキー編『街娼』を読む人は以下を読まない方がいいと思います。

 

 

6)色川武大「星の流れに」

大江健三郎の無駄に饒舌な文体を読んだあとだけに、この文章には惹かれます。簡潔で的確。思い出を思い出らしくなく、淡々と記述していく。

解説では「戦場ジャーナリズムのような文章」と評していますが、ジャーナリズムの文章が観察者の視線だすると、この文体は傍観者の視線です。自分がその中にいるのに高ぶりがない。死が日常にある場でのジャーナリストもそういうものかもしれないけれど。

おそらくは実体験に基いていて、戦争、そして戦後という区切りが浮浪少年、少女たちにはなく、彼らの闘いはなお続き、戦争で見た焼死体と同様にパンパンの焼死体を目にします。それを見る目も傍観者でしかない。焼身自殺ということになっていますが、本当にそうなのかどうかもわからない。観察者であるには余裕がなければならず、ただ過ぎていく風景なのです。

この小説では軽く触れられているだけですが、「私」が傍観者ではなかったのは博打をする時だけか。

やがて、上野の浮浪少女から、いつのまにやら横須賀でパンパンになった順子という女を軸にした物語であることがわかってきます。「私」と順子の間には、交流らしい交流はなく、ロマンはもちろん、会話さえほとんどない。彼女に対しても傍観者でしかない。感情を抑えた筆致にもかかわらず、切なさが読後に尾を引きます。

ここでの順子は店に所属をして、気に入った客と個人交渉をするスタイルのよう。私はこれを街娼の定義から外しています。

※今回も福生で撮ったもの

 

 

7)吉田スエ子「嘉間良心中」

舞台はベトナム戦争時の沖縄。和バンは昭和二三年をピークとし、以降は終息に向かっていきます。対して洋パンは朝鮮戦争時を二次のピークとし、基地周辺ではそれ以降も立ち続けたのがいたわけですが、規模は縮小し、忘れられた存在になっていきます。

しかし、沖縄ではおそらくそれ以降もパンパンたちの活躍の余地があり、ベトナム戦争時はまた活気を取戻していたのかもしれない。焼け跡の時代がなお続いていたわけです。

この作品では私にとって疑いのない街娼がやっと登場。嬉しい。路上で声をかける様子も出てきます。かつ、私が本書に登場する女たちの中で、もっともインタビューをしたくなるのが彼女。高年齢なのです。

高年齢であることが物語を進行し、また、物語を終わらせる重要なキーになっているのですが、「高年齢街娼」に対する凡庸な見方を前提としていて、同時のその「アイデア」が売りでもあって、年齢は途中まで明かされないところに、あざとさを見ないではない。「どうですか、ビックリでしょ」みたいな。

その凡庸な見方というのは、たとえば「高年齢になるとほとんど客はつかない」「とくに若い客はつかない」というものであり、この作者に限らず、一般的にそう思われましょうが、「その年齢だったら、まだイケるぞ」というのが私の実感です。「歳をくった女に需要はない」という思い込みを覆すのが『闇の女たち』の役割のひとつだったりします。

しかし、この小説の見方は基地のある場所での街娼たち、つまりは洋パンにおいては標準なのかもしれず、私が聞いてきた高年齢街娼とは事情が違う可能性もありそう。歳をとってもできるのは常連を溜めてきているからであって、たまに来る若い客だけでは食ってはいけないのも事実です。入れ替わりの多い米兵対象だとたしかに厳しいかも。やっぱりインタビューしたい。

 

 

8)長堂英吉「ランタナの花咲く頃に」

沖縄のことをよくわかっていないので、「照屋」という場所は黒人専用の遊び場であったことを知るなど、「資料としての小説」という意味でも参考になるところはあったのですが、「読み物としての小説」という意味で、この作品にはやられました。さんさんと輝く太陽の光の中で言葉を失います。

 

 

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