松沢呉一のビバノン・ライフ

細井和喜蔵は原稿料で食えていた—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 17-(松沢呉一) -2,887文字-

細井和喜蔵は貧しいから死んだのか?—高井としを著『わたしの「女工哀史」』のもやもや 16」の続きです。

 

 

 

細井和喜蔵も決してつつましくはなかった

 

vivanon_sentence和喜蔵が勝手に亀戸から下目黒に引っ越したため、としをは仕事を辞めて下目黒に住むのですが、家にいても退屈し、和喜蔵に話しかけると、「仕事のじゃまだ」と言われるために、また働きに出ます(「仕事のじゃまだ」とはっきり書いています)。

仕事を辞めたのも、買い取り金が入ってきたからです。働きに出たのは暇つぶしであり、和喜蔵にとって邪魔だったからです。金はあった方がいいですけど、切羽詰まった生活のためではない。

としをは星製薬の工員になります。そんなことまでは説明されていないですが、星新一の父である星一が創設した会社です。今はそれこそ星新一の関係以外では、ほとんど聞かなくなっていて、すでに存在しないと思っている人たちも多いのですが、今も星製薬は存在しています。戦前は今の比ではなく、勢いのある製薬会社でした。

としをにとっては、これまでに経験したことのない素晴らしい環境だったようです。しかし、星製薬の給料は紡績とあまり変わらなかったとあります。どのランクの紡績かわからないですが、この前の女工は兵庫県ですから、相当に安かったのかもしれない。

※星薬科大学にある星一の銅像。星新一の著書は多く新潮社が出していて、文庫が売れ続けているんですってよ。今なおSFの入門編として、早ければ小学校から読まれ続けているのでしょう。私も文章にオチを付けたくなる癖は星新一の影響だと思ってます。

 

 

牛肉を食べていた和喜蔵ととしを

 

vivanon_sentenceそれでも給料日には五反田で牛肉を買って西洋料理を作ったと書いています。給料は安くても、和喜蔵の金がありますから、としをの収入分で牛肉くらい買えます。

和喜蔵と子どもが亡くなったあと、印税がまだ入って来ていない段階でも牛肉を買いに行く話が出てきます。この時は見舞金等があったためでしょうが、牛肉を買える生活をしているのに、和喜蔵と子どもは貧困のために死んだかのよう言うのはおかしいでしょ。

戦後なのに、私が子どもの頃は牛肉なんて食ったことない。ホントの話。その分、北海道では鯨肉と羊肉を食ってました。実際、その頃は牛肉は高かったのだと思います。

大正末期は当然もっと高くて、もっとも安いランクの青島肉でも今で言えば100グラム千円近くしたようです。内地産だとその1.5倍。今だって、私はそんな高い肉を食ってないです。牛肉を食うとしたら、100グラム100円台から200円台のオージービーフです。

和喜蔵ととしをはたまにではあれ、それを食う生活ができていました。

としをはこの時期を振り返って、「あの当時が私たち夫婦の一番人間らしい毎日だったと思います」と書いています。「働かなければ米も買えない」という状態ではなかったのだし、戦後のように、パンの耳と水で命をつなぐような生活ではありませんでした。

 

 

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