松沢呉一のビバノン・ライフ

人間の赤ん坊はハムスターと同じか—半世紀以上生きてきて初めて知ったこと- (松沢呉一) -2,669文字-

 

 

大阪での収穫

 

vivanon_sentence先日の「セックスワーカーのためのアドボケーター講座[大阪編]」では学んだことがさまざまあったわけですが、講座とは別の場で講師の皆さんとダベっている時にも大変重要な話を聞くことができました。

その中でもとくに私にとっては驚くべき話がありました。半世紀以上生きてきて、まったく気づいていなかったことです。

始まりは大阪府立大のHさんと喫煙休憩中に出てきた話でした。

私はなんでもかんでも書いているようでいながら、プライバシーを晒していないとHさんは指摘。その通り、よく読んでます。

チンコの裏筋までを晒しているようで、私の中では書くこと、書かないことの間に一線があるのです。SNSでもそうで、「公的」と言えることは書いても、純然たるプライバシーに属することはあまり書かない。銭湯はプライバシー領域ですけど、あれはOK。研究テーマですから。

常にはっきりと意識しているわけでもないので、その線引きは曖昧であり、「風邪ひいた」「眠い」程度のことは書きますが、「知られたくない」「出さない方がいい」と判断する領域があるのです。

それと通じるのだと思うのですが、今自分がどこで何をしているのかがわかることは書かないようにしています。書くとしても時間を置く。それがわずか数時間であっても、今の自分と距離ができて、書くことができます。「私はすでにそこにはいないぞ」「その私は過去の私だぞ」と。

※William Bouguereau「Young Mother Gazing at Her Child

 

 

家族のことを書くか書かないか

 

vivanon_sentenceもし私が結婚していて、子どもがいたとしても、そのことはまず書かないでしょう。書くとしても、子どもを見ていて、ある種の普遍性があることを見つけたら書くことはあるでしょうし、何かを言うために自分の子どもを引き合いに出すことはあるとしても、ことさらに自分の子どものことは書かないと思うし、写真もまず出さない。

子どもの顔を晒すことで誘拐されるとか、いじめられるとか、そういうリスクを回避する意味とは全然別で、恥ずかしいとか、照れくさいとかそういう感覚に近い。自分の写真を好んでは出さないのと同じです。

あくまでこれは私個人の感覚であって、皆が皆同じはずがないとわかっていながらも、「自分の子どもの写真を好んで出すのが理解ができない」と私が言ったら、Hさんは「私だ」と言います。

「でも、Hさんはそんなに頻繁に出しているわけじゃないし、Hさんの子どもはかわいいから許す。かわいくない子どもの写真を出されるとどうしていいのかわからない」

私はそう言ったあと、こんな話をしました。

SNSは無視すればいいけれど、生身の赤ん坊をこれみよがしに見せてきて、かわいくなかった時に「かわいい」と噓を言えず、「鼻がお母さんにそっくりだね」とか「もうこんなに大きくなったんだ」とか、差し障りのないことを口にしてその場をやり過ごすのが辛い。

なのに、他の人たちは「かわいい」「かわいい」と褒めそやし、「こいつら、よくも心にもないことを言えるな」と内心軽蔑しながら、そっとその場を離れることがあります。

そんな話をしたら、Hさんはこう言うではありませんか。

「えっ、松沢さんは赤ん坊を見る時も美醜で見ているの?」

「当たり前。それが何か問題か」

「あれは、赤ん坊はすべてかわいいってことですよ。犬や猫だって子どもは全部かわいいでしょ。赤ん坊をかわいいと思うように生物はプログラムされているんだから」

「犬猫はそうかもしれないけど、人の赤ん坊を見る時はあくまで美醜でしょ。赤ん坊を見て“かわいい”と言っている人たちは美醜としてかわいいと言っているに決まっているじゃないか。かわいくない赤ん坊に“かわいい”と言っているのは、大人としてのつきあいとか、波風立てたくないとか、そういうもののために内心“かわいくねえ”と思いながら無理しているわけでしょ」

「違うって」

このあと少し内容が変わってさらに話は続いたのですが、そちらはまた別テーマになりそうだし、長くもなるので省略。

※Suzuki Harunobu「Mother and Son

 

 

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