「月光の下に」と森律子の貞操観—女言葉の一世紀 118-(松沢呉一) -3,199文字-
「森律子の「本当の新しい女」宣言—女言葉の一世紀 116」の続きです。
貞操問題を語る
前回に続いて森律子著『妾の自白』から「婦人問題職業問題貞操問題」という文章を見ていきます。
森律子は、自身が舞台に立った額田六幅作「月光の下(もと)に」を素材にして、貞操はどうあるべきかを論じています。この例題は面白いので、皆さんも考えてみるとよいかと思います。
この物語は、「節操を犠牲にして」兄の学費を稼いできた久子という女が主人公です。森律子が演じた役柄です。妾でもしていたのか、私娼で働いていたのか、芸妓になったのかは書かれていません。どれであっても貞操を犠牲にしているわけですから、この話にとってそこはどうでもいい。
久子の金で兄は学校に通って医者となり、田舎ながら大病院を開くことになります。しかし、その寸前に久子の素性が妻の実家にばれて、親と妹によって妻は実家に連れ戻されることになります。
久子、その兄、その妻、その妹は、それぞれに煩悶をするのですが、結局、久子は仏門に入る決意をし、「自分等の歩んで来た道は少しも間違ってゐない、自分等は正しい、自分等は節操を犠牲にしたが、もはや何千といふ人々を怖しい死から救って来たのだ」と叫んで終わります。「自分等」とあるのは「自分と兄」のようにも、同じ境遇にある女たちすべてとも読めます。
作者はこの理不尽さに対して、「では誰が悪いのか、どこが悪いのか」を問いかける内容です。この芝居は四人の立場(妻の親もかな)に場面ごとに共振するようになっていて、観客は揺れながらも、自分自身で答えを見出さななければならないようになっていたらしい。
この設定はNSWPのケイティ代表のエピソードにも通じます。姉がセックスワークで稼いだ金で大学に行った妹が仕事を軽蔑しているので、「金返せ」と要求するケイティが正しいのですが、「月光の下に」では兄は久子に感謝しているがために板挟みになっていたと思われるので、もう少し厄介。
そもそも久子が兄のために犠牲になる必要はありませんが、久子本人がそれを決断したのであればその意思は尊重されるべきです。結婚も個人の意思ですから、兄嫁がそれでいいのであれば親がとやかく言うことではないのですが、この頃は結婚に親の承諾が必要であって、結婚後であっても親の意思に背くことは難しかったでしょう。
嫁が親に従うというのであればそれも尊重するまで。離婚するしかない。ここで兄が嫁をとるのであれば、これまで妹からもらった金に利息をつけて返済すべきです。久子が消えれば丸く収まるのだとしても、久子は身を退く必要はありませんが、利息つきで全額返済してもらって兄との縁を切るのもひとつの選択ではありましょう。
ということから考えて、この芝居の結末は久子にとって不当であり、兄も嫁もその妹も親も間違っています。病院は儲るんだから、たんまり利息をつけて金を返せよ。
※『帝国劇場附属技芸学校写真帖』(明治四十三年)より花魁に扮する森律子。
森律子の貞操観
というのが私の考えですけど、森律子は全然違います。
或る美しき大なる目的の為めに節操をも犠牲にする—斯ういふ行ひに対しては必ずしも咎め立てすべきでなく、むしろ反対に賞すべきことのやうに思ってゐるのが、従来の日本人の慣例のやうに思って居ります。
其所へ行きますと、西洋の方の思想は全然否定的です。基督教の思想から申しますと、如何なる場合にも節操を犠牲にすることは絶対に許されることではありません。尤も近代の—これは私が最近読みました書物ですが—或る哲人の言はれる所などには、或る目的の為めにされる或る程度までの節操犠牲は必ずしも咎め立てすべきではないなどと云はれてゐるやうにも思ひますが、これはほんり少数者のことで、大部分はやはり、節操は如何なる場合にも全うせねばならぬものと考へられて居ります。
そう述べて、自分自身も「どんな場合にも節操だけは婦人の生命ですから、必ず全うせねばならぬものと考へて居ります」と書いています。
これは時代の限界だと言っていいかと思います。
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