松沢呉一のビバノン・ライフ

誰が言葉を狩ったのか—心の内務省を抑えろ[1]-(松沢呉一)-2,535文字-

「BAN祭り」シリーズでこの話を書いていたのですが、書き進めるうちに長くなりすぎて、「BAN祭り」のことがすっ飛んでしまったため、「言葉狩り」については独立させました。最後は「BAN祭り」に戻る予定です。

「心の解放同盟を抑えろ」というタイトルにしようかと思ったのですが、現在は部落解放同盟が文脈抜きで糾弾するような話は聞かないので、内務省にしておきました。戦前の内務省の管轄範囲は広いのですが、思想関係の取締をやっていた関係から、出版物の検閲を担当していた役所であり、特高もこの中にありました。

祭りの写真が出てくるのは「BAN祭り」シリーズ用だったためです。気にしないでください。

 

 

「傷ついた」という言葉

 

vivanon_sentenceでは、これから差別用語についての話をします。「言葉狩り」について理解していない方は「オールロマンス事件から言葉狩りまで」を先に読んでおいてください。

杉田水脈議員の原稿を契機にした批判、抗議の中で「傷ついた」という言葉が頻繁に聞かれます。自分の存在を否定する言葉に傷つくのは当然です。怒りだけでなく、無力感や自己に対する嫌悪感までをももたらす。

個人に対するそれらのダメージは差別による典型的な結果のひとつであることは間違いない。よって差別がなぜいけないかの例として出すことには必然性があります。その個人の表明に文句をつける人はいないでしょう。本人が言う以上、傷ついたという吐露を誰も否定することはできない。

安逸に流れる表現なので、その言葉を使わずに、杉田水脈議員の発言の問題点を他者に伝えるようにした方がよりよいいとは思うのですが、安逸ではあれ、人に伝わる言葉ですから、そこまではいい。

 

 

思い上がりもたいがいに

 

vivanon_sentence問題は、このことが、差別、また差別用語であるのか否かの判定基準になると思い込んでいる人たちがいることです。ヘイトスピーチ規制においてもしばしばこの言葉は聞かれます。端的にまとめると、「人を傷つける言葉に表現の自由はない」「傷ついているのだから、規制すべきである」といった趣旨の主張がなされてしまう。んなわけがないべ。

もしこれが正しいのであれば、あらゆる罵倒語、罵倒表現には表現の自由がないことになります。そういった表現を使わなくても批判もなされてはいけないことになる。

「これは差別表現ではないだろ」と指摘しても、「傷つく人がいる」「不快になる人がいる」という主張をして、それが差別表現かどうかの検討を拒む人たちもいます。「だから差別表現なのだ」あるいは「差別表現ではなくても、人を傷つけることを言ってはならない」と思い込んでいる人たちがいるのです。

その程度の理解でも、自身では「差別に敏感な私」と錯覚しているので、どうにもならない。その段階で「この人とは議論が成立しない」とサジを投げるしかなくなってしまいます。

「傷ついた」という表明に文句をつける人がいないために、この言葉は水戸黄門の印籠になってしまっている。これはまずい。確実に「言葉狩り」につながります。

「バカ」も「芸人」も「おまわり」も「運ちゃん」も「床屋」も使えず、貧困表現もグロ表現もすべてできない社会をそうも望んでいるのでありましょうか。

 

 

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