大杉栄は病院へ、神近市子は警察へ—伊藤野枝と神近市子[10]-[ビバノン循環湯 470] (松沢呉一) -5,331文字-
「肉と肉のぶつかり合い—伊藤野枝と神近市子[9]」の続きです。
そして事件は起こった
この事件のクライマックスです。ここは大杉栄による臨場感溢れる描写を読んでいただいた方がいいでしょう。
ふと僕は、咽喉のあたりに、熱い玉のやうなものを感じた。
「やられたな。」
と思って僕は目をさました。いつの間にか、自分で自分の催眠術にかかって、眠って了っていたのだ。
「熱いところを見ると、ピストルだな。」
と続いて僕は思った。そして前の方を見ると、彼女は障子をあけて、室のそとへ出て行うとしてゐた。
「待て!」
と僕は叫んだ。
彼女はふり返った。
(略)
僕はその前夜彼女が寝てゐる伊藤をにらみつけた、その恐ろしい殺気立った顔を見ると思いのほか、彼女がゆふべ僕に泣きついて来た時のその顔よりももっと憐れな顔を見た。
「許して下さい。」
彼女がふり向くと同時に発したこの言葉が僕には意外だった。
しかし、もうこうなった以上、僕は彼女を許す事が出来なかった。少なくとも其の瞬間の僕は、何んという理窟はなしに、ただ彼女を捕まへてそこへ叩きつけなければ已まなかった。
僕は起きあがった。そして逃げようとする彼女を追ふて縁がはまで出た。彼女はそこの梯子を走り下りた。僕も続いて走り下りた。そして中途で僕は彼女の背中へ飛び降りるつもりで飛んだ。が、彼女の方がほんの一瞬間だけ早かった。彼女は下の縁がはを右の方へ駆けて、七八間向うの玄関のところから更に二階の梯子段を登った。僕は梯子段を飛び下りた時から、急に足の裏の痛みと呼吸のひどく困難になって来たのを感じながら、猶彼女を追っかけて行った。
其の二階は、僕の居室の方の二階とは棟が違ってゐて、大きな二つの室の奥の方が、其夜は宿の親戚の女共の寝室になっていた。彼女は其の手前の室の中にはいって、紫檀の茶ぶ台の向うに立ちどまった。
「許して下さい。」
彼女は恐怖で慄えながら又叫んだ。
が、僕はその茶ぶ台の上を踏み越えて彼女を捕まへようとした。彼女は又走り出した。その奥に寝てゐた女共は目をさまして、互いにかぢりついて、僕等の方を見つめながら慄えてゐた。
僕は呼吸困難で咽喉がひいひい鳴るのを覚えながら、猶彼女を追っかけて行った。彼女はさっきの梯子段を降りて、廊下をもとの方へ走って、もとの二階へは昇らずに、そこから左の方へ便所の前に折れた。そしてその折れた拍子に彼女は倒れた。僕も彼女の上に重なって倒れた。
僕はそれから幾分たったか知らない。ふと気がついて見ると、血みどろになって一人でそこに倒れていた。呼吸はもう困難どころではなくほとんど窮迫してゐた。
ここから病院に運ばれ、手術台に至るまで続きますので、読みたい方は国会図書館か青空文庫へどうぞ。
一方、神近市子は大杉栄に捕まることなく日蔭茶屋から逃げ出しますが、間もなく自首しています。
※吉田喜重監督「エロス+虐殺」より正岡逸子(神近市子)役の楠侑子
ヤン坊マー坊となった神近市子
『神近市子自伝/わが愛わが闘い』(以下『神近市子自伝』)でも事件については念入りに説明していて、大杉栄や伊藤野枝へ恨みがましいことを書いています。大杉栄は身勝手でいい加減な男だと私も思いますが、これを読むと、神近市子もそれに劣らず身勝手です。
戦後、ヤン坊マー坊となった神近市子が、過去の自分をも極力ヤン坊マー坊に近づけようとしているのがよくわかります。
神近市子は、大杉栄によって強引に関係が作られ、また続けられ、自分はそれに渋々ついていったに過ぎないかのようなことを書いています。
自分が男性の単なる好色的な目で見られていたのを、恋愛の感情と速断したのが重大な過ちであった。
ムショにいたため、神近市子は平塚らいてうの文章を読んでないのかもしれないですが、自身こそが「好色な目」であったことに気づいていなかったのか、平塚らいてうの文章を読んでいても、なかったことにしたようです。
「真面目で純真だった私が大杉栄に踏みにじられた」という物語です。この二人の関係において、主導権は大杉栄でしょうけど、神近市子も十分に積極的だったことは今まで見てきた通りです。
もし神近市子がそう見られたがっている「真面目で純情な二七歳」だったとしたら、そもそも堀保子という存在がいる大杉栄とつきあうことはなかったはずです。不倫だから恋愛ではないとは言えないですけど、それほど純情ではあるまいに。
神近市子は裁判で自身、社会主義者であることを否定します。これは裁判上、けなげな恋する乙女(って歳ではないですが)という印象を打ち出して、裁判官の心証をよくするというテクだったかもしれないですが、「平塚らいてう」「青鞜」「新しい女」では不足だったグルとして「大杉栄」「社会主義」「無政府主義」が現れたのであって、自分の存在、自分の欲望を肯定してくれる強大な存在であればなんでもよかったのでありましょう。その意味ではたしかに社会主義者ではなかったのかもしれない。
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