ヘソを出しただけで警察から呼び出された—ヘソがエロチックだった時代(下)[ビバノン循環湯 496] (松沢呉一)
「ヘソ占いとヘソ露出プレイ—ヘソがエロチックだった時代(上)」の続きです。
HADAKAレヴユのハンラン
日本のストリップの歴史は「額縁ショー」から始まると言われる。昭和二二年一月、日比谷帝都座五階劇場のこけら落とし公演「ヴィナスの誕生」で、当時二十歳の甲斐美春がボッティチェリの名画「ヴィナスの誕生」を模したポーズをとって登場。額縁の中で微動だにせず、わずか数秒で幕が下りるのだが、それでも大反響となって人が詰めかけた。
このアイデアは、日劇ダンシングチームの生みの親である秦豊吉によるもの。秦豊吉は、丸木砂土のペンネームを持ち、翻訳家、随筆家としても活躍した人物である。
「額ぶちガール」との異名をとった甲斐美春は第二回公演「ル・パンテオン」ではルーベンスの「アンドロメダ」を演じ、第三回公演「ルンバ・リズム」、第四回公演「女の学校」でも上半身の裸体を晒したのだが、伯父の反対により、彼女の裸は封じられてしまう。
この「額縁ショー」の人気を他の劇団がほっとくわけがなく、渋谷東宝劇場で「東京レヴュウ団」のりべらるショウ「院長さんは恋がお好き」では、鈴木好子が踊りながら服を脱いだ。
ここから、一般の劇団までが次々と裸を見せるようになり、やがては裸そのものを見せることを売りにしたストリップ劇場もオープンして、全裸になる「全スト」も登場していくことになる。
この辺の話は、秦豊吉自身が書いたものやストリップ史の本でも読んで知っていたのだが、カストリ雑誌「ナンバーワン」2号(昭和二二年十月発行)を読んでいたら、西岡浩「HADAKAレヴユのハンラン」という記事が出ていて、ちょっとした発見があった。
「額縁ショー」が登場したその年の記事であり、この原稿では「額縁ショー」という言葉は使用されておらず、あくまで「裸レビュー」である(同じ文章で「レヴュウ」「レヴウ」などの表記が出ているが、ここでは「レビュー」に統一).。「レビュー」はフランス語のrevueから来たもので、歌と踊りとコントを中心としたショーのことだ。
日劇ミュージックホールがその路線を最後まで維持していたように、今我々がイメージするストリップとはまったく別のものである。お色気は大事な要素ではあっても、裸そのものを見せるものではなかった。ストリップ劇場でも、長らくお笑い芸人が登場していたのは、レビューの時代の名残と言っていいかもしれない。
※Margaretha Geertruida “M’greet” Zelle McLeod, better known by the stage name Mata Hari
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