無知・無関心が自身を死の淵に追いやった—ブルンヒルデ・ポムゼルが残した言葉[5]-(松沢呉一)
「知らないことには責任がないという論理—ブルンヒルデ・ポムゼルが残した言葉[4]」の続きです。
敗戦に至るまでの彼女の行動は、ゲッペルスのようにヒトラーとともに死ぬことを覚悟している人のそれか、ここに至ってもなお無知でい続けた人のそれか、どちらかであり、本人の言い分を信じれば後者だったようです。
これについてのブルンヒルデ・ポムゼルの語りは、話が前後していて、かつ日付の記載が少ないため、ちょっとわかりにくいので、補足を入れながら整理してみます。
ソ連軍が迫り、ベルリンで市街戦が始まったのは1945年4月23日。その直前、おそらく4月20日、コラッツ博士というゲッベルスの担当官だった人物から声がかかり、彼の運転するバイクで、
主語は「人々」になっていて、全体を通して、しばしば彼女は「私」ではなく、もっと大きい主語を使いたがります。先に出てきた「罪はない」「責任はない」という言葉もだいたい「私たち」になっています。「私」とすべきところで「私たち」と言ってしまう人。こういう人がナチスを支えたのはわかりやすく、「私」を持たない人の集積が全体主義です。
一方で、ヒトラーが自殺するまで逆転を信じていた自分を指して、「私たちのような人間はそう多くはなくなっていた」とも言っています。ここでも「私たち」ですが、もっとも鈍感な人間の一人だったとの自覚くらいはあったようです。
いずれにせよ、ここで負けると悟ったのであれば宣伝省に戻る必要もない。
ラジオではギリギリのところまでゲッペルス自身が徹底抗戦を呼びかけていましたが、戦況が悪化し、もはや勝ち目がないと悟ったナチス幹部らは続々ベルリンから脱出します。国民には徹底抗戦を呼びかけながら、つまりは「死ぬまで闘え」と言っておきながら、自分らは逃亡ですよ。なんちゅう卑怯者たち。そういえば吉岡彌生もあれだけ女たちに闘うことを呼びかけておきながら、空襲が始まると、自分はさっさと疎開しました。こんなところまでナチス方式。そういう意味では最後までヒトラーと行動をともにしたゲッベルスは偉いかもしれない。
しかし、ブルンヒルデ・ポムゼルは家で一晩過ごすと、母親が止めるのも振り切って、仕事があるからとベルリンに戻ります。逃げた幹部たちではなく、ゲッベルスらと同じ行動をとったのです。
※Wikipediaより宣伝省の建物
敗戦間際の不可解とも言えるポムゼルの動き
4月21日、彼女は初めて宣伝省の地下壕に入り、ここから10日か11日の間、彼女はここで過ごすことになります。このすぐ隣に、総統地下壕があって、そこにヒトラーとエーファ(エヴァ)・ブラウン、ゲッペルスとその家族らがいました。彼女は総統地下壕をこの時初めて知ったようです。場所がわかると空爆されますし、国内の反対派からも狙われますから、末端の秘書には知らされておらず、彼女も知ろうとはしていなかったわけです(ホントかなあ?)。
地下深くに掘られていたため、爆弾が落ちても安全であり、十分ではないにせよ食糧もあって、酒も用意されていた地下壕にいたポムゼルは知らなかったわけですが、このすぐあとの4月23日にソ連軍がベルリン市内に侵攻し、ドイツ兵たちはソ連兵に続々殺されていきます。一方でドイツ兵は白旗を挙げるドイツ国民を射殺。ソ連兵も民間人を容赦なく射殺。
ソ連軍が制覇した地域では、殺戮と強姦と略奪です。宣伝省が機能していた頃、ゲッベルスはソ連兵にドイツ女性らが強姦されていると喧伝し、ポムゼルはその数字の水増しをやっていたことを自身で書いています。ソ連兵たちが殺戮、強姦、略奪をやりたい放題やっていたのは事実でした。ろくに訓練も教育も受けていないような粗製軍だったため、規律なんてものを求めるべくもなかったようです。質の悪さは数でカバー。
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