松沢呉一のビバノン・ライフ

ハンス・ショルは不良系—バラの色は白だけではない[14]-(松沢呉一)

ハンス・ショルが刑法175条で逮捕されるまでを確認—バラの色は白だけではない[13]」の続きです。

 

 

ハンスが「女性の分野」で抱えていた問題とは?

 

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トラウテ・ラフレンツはハンス・ショルと別れた理由をこう説明しています(自動翻訳に手を加えてます)。

 

ラフレンツ:彼はすべてにおいて衝動的で、無鉄砲でした彼は物事を最後まで考えずに、勢いで行動しました。 彼がいつも結果を考えていたとしたら、あのあと彼がしたことを実行できなかったと今の私は思っています。

 

ここは性格的な問題を言っているだけですが、ラフレンツは、こちらのインタビューでこんなことを言っています(ほぼ自動翻訳のまま)。

 

彼女は喜んで出入りした。時々彼は何日も呼びかけなかった。「あなたが思うほどロマンチックではありませんでした」とラフレンツは言います。ショルは2つのことを並行して行ったと言われています。「彼は女性の分野で問題を抱えていた。愛は短い、美しい夏だけを開催しました。」

 

自動翻訳だからシャキッとしないだけでなく、元のドイツ語を見てもだいたいこの通りです。これは白バラの活動を始めてからの描写で、ラフレンツが喜んで出入りしたのは、白バラの会合のことだろうと思います。彼女は会合に出たり、出なかったり。「あなたが思うほどロマンチックではありませんでした」の「あなた」は敬称二人称の「Sie」で、記者のこと、あるいは「あなた方みなさん」の意味。白バラにおける2人の関係は人が思うほどロマンチックではなく、その前年の夏の間だけ、2人は恋人同士だったということです。

「2つのことを並行して行った」のは、学生と活動家のこととも思えるし、学生と兵隊のこととも思えますが、その前後のつながりからすると、男女関係のことでしょう。ローゼ・ネゲーレとの二股のことのようでもあり、「男との関係と女との関係」のようでもあります。

「女性の分野」ではなく、「性の分野」と言っていればもっとわかりやすいのですが、原文も「女性の分野」になってます。ヤリチンだったとも、同性愛者だったともとれますが、後者であったために、女とはうまくセックスができなかったという意味かもしれない。

短期で別れたのはハンスが同性愛者だったからだと考えていいのではなかろうか。いかに好きでも、これはもうどうしようもないことですから、ラフレンツとハンスは、別れて以降も親密な友人でした。他に女がいて別れた場合はそうなりにくいのではないか。ここは人によりけりだから、なんとも言えないですが。

どっちのインタビュアもここははっきりと聞いて欲しかったものです。

ハンスは逮捕されたことを忘れたことはないだろうとラフレンツは言っていますから、ハンスはそれを切り捨てようとしてもできなかったのでしょう。どっちもイケるんだったら、別れる必要はない。同性愛者であった可能性が相当に高い。

※このことがわかってからハンスの写真を見ると切ない。たまたまかもしれないけれど、大学に入って以降のハンス・ショルの写真は俯き加減で、笑顔が少ない。

 

 

ハンス・ショルが求めたもの

 

vivanon_sentenceただ、なお断定はできない感触です。

ラフレンツの語るハンス・ショルはラフレンツにとってのハンスですから、他の証言が欲しい。たいてい死んでますから、今から証言が出ることはないとして、手紙等の記録が出てくるかもしれない。インゲ・ショルがその関連のものを廃棄していないことを願いたい。

ゲシュタポはこのことを知っていたはずです。裁判でそのことが改めて取り上げられてもよかったのではなかろうか。見せしめとして、この事件は新聞の一面で大きく取り上げられていますから、「こういう人間だから総統に歯向かうのだ」という論説がなされてもよかった。逮捕からたったの4日で判決が出て、その日のうちに処刑という慌ただしさですから、過去の記録をほじくりかえす暇もなかったのかもしれないけれど、そうすることによって刑法175条の意義を知らしめることができたのに、なぜ当時の新聞が「主犯のハンス・ショルはホモだった!」と報じなかったのか。念入りに調べるとなんか出てくるかも。でも、このくらいドイツの研究者やジャーナリストがもう調べているか。

若いうちは男と戯れることもあるし、セックス自体がうまくいかないなんてことも珍しくないので、裁判のあとも男との関係が続いていたといった証拠が出て来ないとはっきりしたことは言えそうになく、あくまで以下は仮想です。

ハンス・ショルが同性愛者だとしたら、ここに大きな葛藤があったことは想像に難くない。すでにゲイ・クラブや雑誌はナチスに潰され、性学研究所も潰されてましたから、行き場所がなく、相談できる場所もない。それらはおもにベルリンですが、ミュンヘンでもゲイクラブはあったでしょうし、ほんの数年前のことですから、ヴァイマル時代にはそういった文化が花開いていたことくらいは知っていたでしょう。それによってナチスへの反発はさらに強まったろうと思います。

しかし、おおっぴらにやるとまた逮捕されかねないし、そうである自分に自信も持てないまま、女とつきあっては別れることを繰り返していたのではなかろうか(今のところつきあっていたことがわかっているのはトラウテ・ラフレンツとギーゼラ・シェルトリンクだけで、ローゼ・ネゲーレは関係がよくわからないですが)。

 

 

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