松沢呉一のビバノン・ライフ

一世紀前からあった炎上商法と「若い燕」という言葉—伊藤野枝と神近市子[付録編 2]-(松沢呉一)

「新しい女」を悪魔呼ばわりして祈祷をした津田梅子—伊藤野枝と神近市子[付録編 1]」の続きです。

 

 

「若い燕」という言葉を残した奥村博史

 

vivanon_sentenceでは、前回に続いてもうひとつ、平塚らいてうと奥村博史を揶揄した文章を見ていただきましょう。三四郎著『皮肉社会見物』(大正9)掲載「新らしき女のふるてと若い燕」より。

 

曾て生意気なるものの模範として、星やゆ菫を口にして恋愛神聖論を奉じ、而して青年と乳繰り合ふ莫連女のモデルとされた海老茶式部、其奴がいささか甲羅を経た阿婆擦者が、新しき女とか自覚せる女とかを標榜して、勝手な屁理屈を列べて世間を騒がしたことがあるのは、人々の記憶に新たなところである。

彼等は好奇の野次馬共から、面白半分に嗾(けし)かけられ、煽(おだ)てられ、無鉄砲にメートルを騰(あ)げて熱のありったけを吹き散らし、矢鱈に吠え散らし、識者のために散々どやしつけられ、これまで女は男のために玩弄物視させて居た復讐として、男の弄ぶのだなぞと吐(ぬか)して居たお多福も、其の舌の根も干かぬうちに、奥様となり、嚊(かかあ)となり、女房となり山の神となって済し込んで居るのである。

(略)中には世間並の配偶者では自分の我儘が利かぬところから、自分より遥かに年少の、餓鬼にも等しいものを咬(くわ)へ込んで「若い燕」だの「雀」だのと言って、あたかも浅草の仲店で買ってきたキューピーか何かのつもりで弄(いじ)くり廻して居る。弄くり廻されて、洒洒として「私が若い燕でござい」などと臆面もなく面を曝け出して居るキューピー代用の男の気が知れぬ。ぞれでも二個の睾丸(きんたま)を有して居るかと疑ひたくなる。尤も二個の睾丸を有しなかったならば、「若い燕」として阿婆摺の寵愛を受ける資格が無いから、それはたしかに有して居るに違いない。有して居てそれだとすればあまりに腑抜けである。

 

ひどい言いようですが、こういう男たちとともに「新しい女」を叩いたのが津田梅子を筆頭とする女流教育家たちであったことをくれぐれもお忘れないように。

今回も「若い燕」という言葉が出てきますが、奥村博史が平塚らいてうに送った別れの手紙に出てくるフレーズです。この時点では奥村博史個人のあだ名みたいなものですが、やがて一般化して、「若い男の愛人」という意味になっていきます。

この手紙で2人は疎遠になって、その後またよりを戻すのですが、なんでそんな手紙を皆が読んでいて、別れ話から始まるフレーズが今に至るまで慣用句として使われているのかって話です。平塚らいてうが公開したからです。

この手紙は自身を燕に重ねた童話のような物語になっていて、よくこんな手紙を書くものだと思いますが、平塚らいてうの向こうに読者の視線があったと考えると納得できます。私信である手紙が半ば原稿として書かれていたわけです。

 

 

元祖炎上商法

 

vivanon_sentenceこの人たちがすごいのは、性愛関係を赤裸々に原稿にして発表していることです。だからいよいよ叩かれました。平塚らいてう自身も、また、周りもこの関係について書くため、奥村博史の存在を多くの人が知ってました。

これは「青鞜」周りの人たちだけでなく、当時の文化人たちの手紙には、メタな視点があるように思えます。出来過ぎと言いますか。ただ単に文章が上手で、手紙に情熱を込めていたってことかもしれないけれど、広く人に読まれることをどこかで意識していたのだと思います。

当時は自分の性愛、あるいは知人の性愛について小説にする作家が多数いました。恋をしている時はラブレターとして文章を公開し、つきあっている時はおのろけとして公開し、別れると恨みを込めて公開する。

プライバシー侵害なんて考え方がまだなかったので、相手のことは知ったことではない。相手は相手でそのことを書くわけですし、両者が書かなければ誰かが書く。それが話題になって雑誌や本が売れる。

恋をし、セックスをするのは作品のため、原稿のためのネタの仕込みであり、商売のネタでもあり、なおかつ人気を維持するための手法でした。

 

 

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