松沢呉一のビバノン・ライフ

都市伝説「黄色い救急車」とコレラの関係—新型肺炎(COVID-19)について触れにくい事情[余談編 2]-(松沢呉一)

江戸末期から明治半ばまでの日本では虎列刺(コレラ)で年間10万人が死んでいた—新型肺炎(COVID-19)について触れにくい事情[余談編 1]」とはまた別の話ですが、時代背景についてはそちらを参照のこと。

 

 

「黄色い救急車」の都市伝説はコレラから始まったものか

 

vivanon_sentence明治時代のコレラについて読んでいる時に、「これで謎が解明か!」と思ったことがあります。

私が小学校高学年の時に、「黄色はキチガイの色」と言われていました。男子が黄色い服を着ていると囃し立てられるというほどでもなくて、私自身が、服の色か何かでそう軽く言われたことがあった程度です。それも頻繁ではなく、一度か二度、誰かにそう言われました。1970年前後だと思います。

その時はそれだけで終わっていて、なぜ「キチガイの色」なのかはわからなかったのですが、中学に入ってから、あるいは高校だったかもしれないですが、「精神病患者を強制入院させる時は黄色い救急車が来る」という話を聞きます。「だからキチガイの色だ」という説明があったわけではないですが、「ここから来たのか」と納得。

これについてはWikipediaに項目がありますが、黄色い救急車は日本には存在せず、どこからどう発生したものか不明となっています。もしかすると、その元かもしれない記述を見つけたのです。

大阪府編『虎列剌予防史』(大正13年)によると、明治初期の話として、コレラ患者を避病院(隔離病院)に移送する時や遺体を火葬場に運ぶ時は、黄色い旗が出されたとあります。これはヨーロッパから伝わったもので、注意を喚起するための色でしょうけど、このことから黄色は不安や恐怖を煽るようになったと記述されています。

患者や遺体を馬車や人力車で運んだのか、大八車を引いたのかわからないですが、そこに黄色い旗がついていて、これが黄色い救急車という都市伝説につながったのではなかろうか

なお、前回出てきたベルツ花子著『欧洲大戦当時の独逸』によると、避病院のあった本所から、火葬場のあった日暮里まで大八車で運んだとあります。昼間は嫌がられるためだと思いますが、夜中に運び、そのため旗は不要だったとも思われ、旗についての記述はありません。あまりに数が多くて棺桶が間に合わず、菰(むしろ)にくるんだため、途中で遺体を落としても、疲れ切った人夫たちは気づかず、朝になって発見されて騒ぎになったことが度々あったそうです。おそらく何体も積み上げていたのでしょう。

※現在の検疫旗「リマ」。ダイヤモンド・プリンセス号にも出されているかもしれない。

 

 

黄色は異端者の色

 

vivanon_sentenceこの時期だけであれば、また、大阪だけであれば、半世紀以上の時を経て、昭和の時代に変形して登場するのは無理がありそうにも思うのですが、明治12年(1879)6月27日に出された「虎列刺予防仮規則」に、「避病院」設置が定められています。隔離のための一時的な施設であり(写真は前回参照)、いずれは焼き払うことになってました。その条文に「黄色の布に「コレラ」の三字を黒記したる標旗を建て」とあります。避病院も目立つところに旗を立てたのです。

法律で義務づけられたのですから、全国的に実施され、なおかつ相当期間実施されたであろうことが推測できます。

虎列剌予防史には、明治32年(1899)に制定された海港検疫法にも、患者が出た船舶は黄色い旗を出すことが定められたとあります。ただし、条文にはこの規定は見つかりませんでした。見逃しただけかもしれないけれど、施行細則などの隣接法令が何かあるのかもしれない。

 

 

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