戦後になっても「戦争がなければヒトラーは偉大な政治家だった」と信じられる仕組み—独裁者ヒトラーの時代を生きる[4]-(松沢呉一)
「悪いのは親衛隊で、突撃隊は悪くないという逃げ道—独裁者ヒトラーの時代を生きる[3]」の続きです。
ヴィルヘルム・ジーモンゾーンさんの辛すぎる話
このシリーズの1回目に登場した1919年生まれのヴィルヘルム・ジーモンゾーンさんは12人の登場人物の中でもっとも悲しい体験を語ります。
父のレオポルトさんはユダヤ人でした。ヴィルヘルムさんは捨て子で、教会に預けられていたのをレオポルドさん夫婦が引取りました。親子の血のつながりがなく、父はユダヤ人であったことを16歳になって知ります。その頃、ユダヤ人迫害が具体化しつつあって、レオポルドさんの店は潰れ、それでもヴィルヘルムさんは「総督がご存知ならば」と考えていました。
レオポルドさんはやがてザクセンハウゼン収容所に入れられますが、この頃は釈放される人も多くて、やがて家に戻ってきます。しかし、レオポルドさんは人が変わっていました。
レオポルドさんは帰宅してから一度も外に出ることなく1939年に死去。
レオポルドさんをそんなふうにしたのはナチスです。それでもなおヴィルヘルムさんはナチスを疑いませんでした。ヴィルヘルムさんは夜間戦闘機の操縦士になります。1944年、乗っていた機が被弾して、彼も負傷し、そのリハビリ中にドイツの負けをやっと予感します。もはや戦争末期です。
それでも軍の中では気づくのが早かったようで、操縦士は「俯瞰目線」で見ていたからだろうと言っています。同じ情報を得ていても、目の前しか見ない人はなお気づけない。敗戦数日前の1945年5月3日、命令に反して飛行機を着陸させて爆破し、農民のふりをして逃亡します。遂にナチス体制に背いたのです。
ヴィルヘルムさんの話は胸が苦しくなるような内容でした。レオポルドさんはナチスに殺されたようなものです。それでも疑わない。ここでも情報は別々のフェイズに位置づけられていたのだと思います。
※「独裁者ヒトラー 演説の魔力」より
いつドイツの敗北を察知したのか
ヴィルヘルムさんの証言を読んで意外に思ったこと。軍部はスターリングラード戦(1942〜1943)で負けたあたりからヒトラーのもとではドイツは勝てないことに気づき始めるのが出てきて、だからヒトラー暗殺計画が持ち上がるわけですけど、それが可能になったのは正確な情報を得ていて、なおかつ全体を統合して考えることができた軍の上層部の人たちだけだったでしょう。
そんな情報も、能力もない人たちは、それ以降もドイツ軍の勝利を信じていたわけですが、1943年以降、空襲が激しくなって、身近なところで家が焼け、人が死ぬようになる頃から、多くのドイツ人は負けを察知するようになり始めたのかと思ってました。
もちろん、そういう人もいたでしょうが、1927年生まれのヴォルフガング・ブロックマンさんはハンブルク空襲の惨状を目の当たりにして、憎悪と復讐心をかきたてられただけだったと言ってます。16歳ですから、そんなもんかもしれないですが。
一般市民でもベルリン戦の前にベルリンを脱出したのもいますが、ドイツの新兵器が登場することを信じて銃を手にして銃撃戦で殺されていったのも多数いるのですから、たしかにジーモンゾーンさんは早かったかもしれない。
※「独裁者ヒトラー 演説の魔力」より
俯瞰を得るには訓練が必要
まさに私の考えていることに合致します。ジーモンゾーンさんの言う俯瞰は、上空からドイツが破壊されていることを見たということを意味しているのではなく、もっと抽象的な意味だと思います。操縦士は天候、地形、時間、高度など複数の情報を統合して判断をする必要があるってことです。
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