松沢呉一のビバノン・ライフ

死の決意・再生の決意—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[8]-(松沢呉一)

植野直花の言っていることは正しい。しかし、前提が間違っている—公開から6年経って観たアニメ「聲の形」[7]」の続きです

 

 

アニメではカットされた長束友宏監督の自主制作映画

 

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家庭以外では、あれ以来ずっと孤独だった将也にとって、8人で遊園地に行ったのはこの上なく楽しい体験でした。

そもそも受験を控えた高校3年生の彼らが、ああも遊んでいてもいいのかって疑問があって、その疑問を抱かれないようにするためか、観ている人たちには彼らが高校3年生であることがわかりづらくなっていますが、私も高校3年生の時は遊んでましたから、そんなにおかしくはない。

しかし、少しはマシになったとは言え、人の目も見られない死にぞこないの将也を中心とした8人がともに行動すること自体が私は不思議でした。高校時代に、学校以外でそんな人数で集団行動をしたことが私はない。

植野や佐原は学校が遠いのに、こうも集まっていて、この密度はなんだろうなとひっかかっていたのですが、これについては原作を読むと氷解します。

長束監督による自主映画制作が始まっていて、スタッフ、キャストはあの8人なのです。密な関係になるわけです。映画について説明すると、あと15分は必要になるため、アニメでは映画の存在を完全にカット。遊園地で急速に仲良くなって、そのあと急速に関係が破綻してしまう印象です。

将也はなお癒えてないし、いじめたことを直視できていないですから、川井に過去を言いふらされたと思って皆を敵にしてしまい、原作でも、将也は映画に関わるのをやめ、結局、硝子と結弦との関係だけを維持しますが、そうなった理由を硝子は自分のせいだと思い込みます。自己否定が癖になっている人の必然。

疑心暗鬼になって他者を攻撃する将也が孤立するのは無理もないですが、長束は面白いヤツですから、将也と出会うまで孤立していたのは解せない。いかに髪型がヘンであっても。これも原作を読むとわかります。彼は虚言癖があるのです。現実を冷静に見られずに誇大なことを口走る。それが繰り返されて孤立したっぽい。原作ではホントに丁寧に人物の説明がなされています。

 

 

死を覚悟した硝子の表情

 

vivanon_sentenceこれが行き着いた先にあったのが、硝子の自殺未遂でした。

最初に観た時、どういうことかわかりませんでした。なぜ彼女はそうも自分を責めるのか。自己肯定できないからって、自分のせいにしすぎです。しかし、彼女のいわばごまかしによって、自分は他人を理解できないし、他人は自分を理解できなくなっていて、そこを変えないと他人をも不幸にするということかとやっとわかりました。それで死のうとすることも十分に過剰ですが、どういう理由であれ、彼女は自殺念慮にとらわれ続けていますから。

あのシーンはドキドキですが、二度目、三度目に観た時の方が私は泣きました。

というのも、将也といる時に硝子はすでに死を覚悟していたことを匂わす表現がしっかりなされているのです。高校3年生ですから、受験勉強をしなければならないとは言え、こんな日に切り上げるかあ?との思いはあったにしても、まさか死ぬつもりだったとは、最初に観た時は露も思ってませんでした、茶に繰り返し落ちる水滴も、「雨が降ってきたのかな」と。

将也と一緒にいられることの喜びと、その時間がもう終わってしまうことの悲しみが入り混じった表情を改めて見ると、それだけで泣けてきます。竹中直人の「笑いながら怒る人」みたいなものです。

表情の巧みさを今回ほど感心したアニメはありません。

これがこのアニメの悲しみのピークです。あとは希望に満ちたアニメ。怒鳴り合いや殴り合い暴があっても希望に満ちています。

 

 

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