日大山形の元監督・渋谷良弥が回想する「夏の山形大会、忘れられないあの試合」
「昔の県野球場は両翼が91メートル。8番や9番の打者がフラフラッと上げた打球がホームランになることもあって。それには気をつけていましたねえ」
現在、改装によって両翼100メートルとなっている山形県野球場(ヤマリョースタジアム山形)の思い出を語るのは、日大山形の元監督、渋谷良弥。1972(昭和47)年に母校である日大山形の監督に就任。甲子園には春夏合わせて15回出場。後に青森山田(青森)の監督としても夏の6年連続出場含め春夏合わせて8回出場と実績を残し、監督生活の晩年には山形商も率いた。山形県勢の「センバツ初出場」「春夏甲子園の初勝利」「初の甲子園2勝」は、すべて渋谷が率いる日大山形が記録。いわば山形の高校野球界におけるレジェンドとも言うべき存在である。
今回は50年近く高校野球の監督を務めてきた渋谷に、自らの球歴と夏の山形大会の思い出について語ってもらった。
■甲子園に出場はしたが試合はできなかった高校時代

日大山形を率いていた頃の渋谷良弥。現監督の荒木準也も教え子のひとりだ。
渋谷は1947年(昭22)年2月、山形市でのこぎり職人の家に5人きょうだいの末っ子として生まれた。渋谷家の男4人、「渋谷四兄弟」は山形の野球界ではよく知られた存在である。長男・勝弥は山形工、次男・成弥は山形商、三男・邦弥と四男・渋谷は日大山形で、それぞれ選手として活躍。1989(平成元)年、北海道で開催された「はまなす国体」では、軟式野球・壮年の部の山形県代表として、渋谷がピッチャー、邦弥がキャッチャー、勝弥がファースト、成弥が監督で同時出場して話題となった。
「選手として一番うまかったのはサウスポーの成弥。私と同じピッチャーだったからお手本でした。知ってる? 今のカーブだのスライダーだのは、昔、ドロップって言ったの。兄貴のドロップは本当にすごかった」
日大山形の甲子園初出場は1963(昭和38)年夏。当時、2年生の控え投手だった渋谷は、兄の邦弥とともに聖地を踏んだ。
「といっても、甲子園は開会式だけ。西宮球場での初戦で沖縄の首里に負けました」
この年、夏の甲子園は記念大会で一県一代表制がとられており、例年より出場校が多かった。そこで3回戦までは、甲子園だけではなく西宮球場も会場となったのである。
「〝なんだよ〜〟って感じですよね。しかも、私は控え投手だったから試合も出ていない。当時の甲子園は記念大会以外は、秋田と山形で代表校1校というシステム。3年生の時は秋田県勢と戦う西奥羽大会で負けてしまった。つまり、私は甲子園に出たのに、甲子園で試合をできなかった。それで、将来、絶対に甲子園で野球をやりたいと、初めて高校野球の指導者になりたいという気持ちが生まれたんです」
大学は「いずれ母校の指導者に」という学校側の希望に応えて日大へ。エースを目指すも力及ばず4年間、控え投手として過ごした。大学卒業の段階で母校から指導者の誘いもあったが、「ずっと控えだったので、もう少し野球をしたい」と静岡にある社会人野球チーム、金指造船でプレーすることとなった。ここで池谷公二郎(元・広島)と同僚となり、多くのアマチュアチームで監督を務め、大石大二郎(元・近鉄)、岡林洋一(元・ヤクルト)、黒田博樹(元・ヤンキース)などを育てた名将・望月教治の指導を受けている。その後、金指造船が1971(昭46)年に休部となり帰郷。1972年、25歳で日大山形の監督に就いた。
渋谷が夏の山形大会で最も思い出に残る試合は、幾多もの優勝を決めた試合、ライバルとの名勝負ではなく、この年の試合だという。
■監督就任時は野球どころではなかった
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