ヤマガタ野球通信

日大山形のグラウンドにて<無料記事・新刊発売のお知らせ>

「めざせ全国制覇」
日大山形の練習グラウンドに掲げられている言葉である。

私がそれを初めてそれを目にしたのは、自分自身も高校球児だった今から30年前。正直なところ「目標、高すぎじゃない?」と感じたことを記憶している。当時は現在ほど東北勢が強くなく、なかでも山形県は全国で唯一、甲子園でベスト8進出がなく、夏の甲子園で歴史に残る大敗も喫した弱小県。私も高校球児らしく「目指すは甲子園優勝!」と思ってはいたが、一方で心中には「でも実際は無理だよね」と夢を信じ切れない自分がいたのもまた事実で、それ故にあまりにも非現実的な言葉に思えたのである。

■「県勢初」の歴史を刻んできた日大山形

鶴岡の高校で甲子園出場を目指していた私にとって、日大山形はライバル校という存在だった。ただ、当時の山形高校球界は「日大・東海2強時代」。正直、庄内勢は分が悪かった。2年生のとき1学年上だった140キロ台の速球が武器の日大山形の投手・笹原吉雅のボールを見て、「ちょっとレベルが違うな」と驚いたものである。当時は1990年代前半。140キロ台のボールを投じるピッチャーは、今よりずっと希少だった。実際、1992年夏の甲子園に出場した笹原の球速は出場投手の中でも最上位クラス。甲子園でも2勝を挙げ、山形県勢の悲願だったベスト8進出を果たす予感を抱かせた。しかし、やはり壁は高く日大山形は3回戦で敗退。練習後に結果を聞いて、ライバル校ながら「笹原でもダメか」とガックリした。

ただ、そのチームには強打好守のショート・高橋厚介、パワーヒッターの佐竹秀博と野手の中心選手に2年生がいたため、翌年にも期待を抱かせるチームだった。その評判通り、翌年の夏も甲子園出場を果たした日大山形は、再び3回戦進出。しかし、その年の準優勝校、春日部共栄(埼玉)に延長で敗れ、またも悲願達成はならなかった。甲子園の夢を絶たれた直後の私は、これまでの人生の中で唯一、甲子園を見る気持ちになれずにいた。結果は、一度体験してみたかったアルバイトの終わりに、ニュースで知った。

こうして何度かベスト8の壁に跳ね返された日大山形が、悲願を成就させるのは2006年の夏まで待たねばならなかった。既に春のセンバツでベスト8は東海大山形が、ベスト4は羽黒が達成していた。だが、高校野球の集大成である夏の甲子園でのベスト8は、やはり山形県勢の「初のセンバツ出場」「センバツ初勝利」「夏の甲子園初勝利」「甲子園初ホームラン」といった歴史を刻んできた日大山形が達成したのである。その7年後、日大山形はこれまた県勢初となる夏の甲子園ベスト4も記録している。鶴岡の高校出身の私としては悔しい思いもあるが、長年にわたり山形県の高校野球の歴史をリードしてきたのは、やはり日大山形であると認めざるを得ない。

8月8日、夏の甲子園1回戦で日大山形はおかやま山陽に敗れた。エース・菅井颯のポテンシャル、才能豊かな2年生野手陣の実力を考えれば勝てない試合ではなかったが、ミスもあって相手に主導権を奪われてしまった。しかし、過去、日大山形は甲子園のベスト8、ベスト4を成し遂げるまで何度も挑戦を続けてきた。敗戦は勝利の母。この負けを養分にして、日大山形は再び県勢初の決勝進出、甲子園優勝にチャレンジするのだろう。

■「めざせ全国制覇」と挑み続けた歩みを

「めざせ全国制覇」
その言葉を掲げたのは、元監督の渋谷良弥である。1979年、夏の甲子園で初めて3回戦に進出し、ベスト8に挑むも敗れた直後のことだった。
「もう甲子園に出るだけの時代は終わり。もっと上を目指さなければ今以上に強くなれない」と「めざせ甲子園」の文字を「めざせ全国制覇」に変えたのだという。
「〝監督、何言ってんだ、無理だべ〟って言う人もいましたよ。でも〝笑うヤツは勝手に笑え〟と気にしませんでした」
そんな渋谷の話を聞き、「目標、高すぎじゃない?」「無理でしょ」と感じてしまった高校時代の自分の志の低さを恥じた。「本気度」の違いが、自分たちと日大山形の差だったのだろう。

8月2日、「ヤマガタ野球通信」を主宰する私、田澤健一郎の著書『104度目の正直 甲子園優勝旗はいかにして白河の関を越えたか』(KADOKAWA)が発売となった。昨夏、仙台育英が果たした東北勢の甲子園初優勝。そこに至るまで東北6県それぞれが挑み続けた歴史を、各県の象徴的なエピソードにスポットを当ててまとめたノンフィクションである。我が故郷である山形編は、そんな日大山形の挑戦の歴史を、渋谷と現在の監督である荒木準也のエピソードを中心に取材、執筆した。もし興味のある方がいたら、ご一読いただけるとうれしい。

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