ヤマガタ野球通信

雨と山形南グラウンドと1993年夏の山形大会

■長雨の影響で第二球場が会場になった1993年夏の山形大会

雨にたたられている今年の山形大会。本日(15日)も全日程が明日に順延となった。試合を消化できた日も、度重なる中断があったりと運営も一苦労。試合再開のために何度もグラウンド整備を行ってくれた運営・球場関係者や補助員を務める各校野球部員には感謝の言葉しかない。なんとか明日以降は好天、せめて曇天を望みたいところである。

そういえば、今からちょうど30年前、私が高校3年生の球児であった1993年の夏の大会も、今年同様、雨が多く、大会日程が狂わされた年であった。地方大会だけではなく甲子園も雨続き。記録的冷夏によって稲も生育不良になり秋には米不足が発生。米の緊急輸入が行われることが大々的に報じられていたことを思い出す。

と同時に、私個人にも忘れられない大会の出来事がある。

当時の山形大会は現在のように間に休養日を設ける週末開催中心のスケジュールではなく、7月15日を過ぎた頃に開幕し、一気に試合を進めて7月25日過ぎには決勝を行う日程だった。故に雨天順延が続くと日程の余裕がなくなる。その結果、1993年の夏の山形大会では、苦肉の策として山形県野球場(現・ヤマリョースタジアム山形)に付設する第二球場も使用することになった。私の高校は使用を免れたが、顔見知りが多く所属していた近所の高校は第二球場で1回戦を迎えることになり、「ここで負けたら気の毒だな」と勝利を祈ったものである。それほど雨の多い年だった。

さて、そんな大会で私の高校は3回戦に進出した。会場は山形県野球場で第1試合。私の高校は鶴岡にある。当時は今ほど高速道路も整備されていなかったので、庄内と新庄以外の会場で第1試合となったときは基本的に前日入りしていた。
定宿は山形市内の旅館。当然、練習グラウンドはない。6月から雨続きで、監督は大会前に外でのバッティング練習がほとんどできなかったことを不安に感じているようだった。だからだろうか、3回戦当日は、早朝に山形市内の高校のグラウンドで練習をしてから球場入りすることになった。監督が個人的に依頼したのか、あるいは雨で練習不足になった遠方から宿泊しているチームのために運営が配慮してくれたのかは、今となってはわからない。「割当」という言葉を耳にした記憶もあるので、後者だったのだろうか。

そんなわけで早起きして向かった場所は、山形南高校のグラウンドだった。
曇ってはいるが試合はできそうである。前日に降っていた雨は、夜にはやんでいたが、グラウンドには所々、水たまりができていた。時間が限られていたことと、メニューはフリー打撃のみだったので、外野は水取りをせずに練習が始まった。

練習が終わったらそのまま球場入りするので、みな試合用のユニホームを身にまとっていた。私は背番号13をもらってはいたが、試合には出場しない三塁コーチ兼ブルペンキャッチャー兼ノッカー。いわゆる裏方である。バッティングには参加せず外野守備を手伝っていた。
久しぶりとなるグラウンドでのフリー打撃に、レギュラーの面々は気持ちよさそうに、遠くに飛ぶ打球を確認しながら打ち込んでいた。私はその打球を右に左に追っていた。

そのときである——。

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