米沢工の名で挑む、最後の夏。よみがえる1991年夏の熱狂
米沢工の名で挑む、最後の夏
白地に太い英字で描かれた「YONEKO」の文字。甲子園で躍動したユニホームは、今もほとんどデザインが変わらないまま令和の時代の選手たちも身につけている。
YONEKO――米沢工が置賜勢初となる甲子園出場を成しとげたのは、1991年の夏だった。甲子園では1回戦で柳川(福岡)に1対6で敗れた。ただ、その1点は当時、甲子園で3年連続完封負けが続いていた山形県勢の、4年ぶりとなる得点だった。
そんな米沢工は、少子化を背景にした高校再編により、来春に米沢商と統合。新校名を「米沢鶴城」として、新たなスタートを切る。今や高校の統廃合のニュースは全国的に珍しいものではない。しかし、当時の熱狂――三塁側のスタンドが生徒や学校関係者だけではとどまらず、応援にかけつけた市民であふれた1991年の夏――を知る人間にとっては、やはり寂しい。OBや関係者となれば、なおさらその思いは強いだろう。
2024年7月19日。きらやかスタジアムで開催された夏の高校野球・山形大会3回戦、第二試合のカードは「米沢工VS日大山形」だった。置賜で唯一の甲子園経験校である米沢工も、近年の成績は振るわない。甲子園出場時、日大山形は山形大会準決勝で倒した相手だが、今大会は鶴岡東と並ぶ優勝候補2強の一角。マッチアップは正直、分が悪い。試合前のスタンドには、どことなく米沢工の最後の夏を見届けよう、とでも表現したくなるような空気が流れていた。
だが、米沢工のエース左腕・鈴木幸成は、そんな周囲のムードに抗うかのように、最高のスタートを切る。
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